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本日の一曲 vol.352 ディーリアス 夏の歌 (Frederick Delius: A Song of Summer, 1931)

フレデリック・ディーリアス(1862年1月29日生~1934年6月10日没)さんは、イギリスの作曲家とされますが、両親はドイツ系であり、両親がイギリスに帰化したため、生まれはイギリスであり、生まれてからしばらくはイギリスで音楽教育を受けていたものの、その後の生涯からすると、その音楽のルーツはミクスチュアなものだったと言えます。

ディーリアスさんの両親の家業は羊毛業であり、息子が音楽の道に進むことを反対していた父親は、息子に仕事を与え、ディーリアスさんをスウェーデン、フランス、アメリカへ送り出します。

しかし、どこへ行っても、ディーリアスさんは音楽に夢中だったので、とうとう父親も折れ、音楽を学ぶための学費を出してくれ、1886年、ディーリアスさんが24歳のときに、ドイツのライプツィヒ音楽院に入学します。

その後、1888年にパリに行き、1897年にドイツ人の女流画家のイェルカ・ローゼン(Jelka Rosen)さんと出会って1903年に結婚し、パリから少し離れたるグレ(グレ=シュル=ロワン)で暮らしながら、作曲活動をしていました。この時代には、ドイツやイギリスでさかんにディーリアスさんの作品が上演され、評判になっていました。特に、イギリスの指揮者トーマス・ビーチャム(Thomas Beecham)さんがディーリアスさんの作品を熱心に取り上げ続けました。

そして、1914年から第一次世界大戦を迎え、ディーリアスさん夫妻はイギリスに一時避難していましたが、ディーリアスさんが作曲に専念していて、教鞭をとったり、演奏会を開いたりすることなく、公的な活動はしていなかったため、第一次正解大戦の終結とともに、あまりディーリアスさんの作品が取り上げられなくなりました。

それでも、ビーチャムさんたちの尽力により、イギリスでディーリアスさんの作品が演奏され続けていたのですが、若い頃からからディーリアスさんが患っていた梅毒の症状が思わしくなく、1928年には失明してしまいました。

ディーリアスさんが失明した後、ディーリアスさんは口述筆記により、作曲活動を続けましたが、この作業を無償で奉仕したのが、ディーリアスさんのファンであったイギリスの若い作曲家エリック・フェンビー(Eric Fenby)さんでした。本日ご紹介する「夏の歌」は、このときの曲です。そして、1934年6月10日、ディーリアスさんはグレで亡くなりました。

「夏の歌」は、曲種としては、声楽はなく、オーケストラ演奏だけの「交響詩」です。この曲を口述するに当たり、ディーリアスさんは、フェンビーさんに次のように話したそうです。

「ヒースの崖に座って海を眺めているところを想像してほしい。高弦の持続和音は、澄んだ空と静寂と静けさを暗示している。音楽がもっと活気にあふれてくるときにバイオリンの音型を覚えておいてほしい。波の穏やかな上下を暗示するために、この音型を導入している。フルートはカモメが滑空する様子を暗示している。」

ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli)さん指揮ロンドン交響楽団(London Symphony Orchestra)の演奏です。

ディーリアスさん晩年におけるフェンビーさんとの交流は、フェンビーさんが1936年に著書にしています。最近、日本語訳も出版されました。

また、このフェンビーさんの著書をベースにして、1968年には、イギリスの映画監督であるケン・ラッセル(Ken Russell)さんが、「夏の歌(Song Of Summer)」というBBCの映画を制作しました。

(by R)

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