二律背反の極み前書きー東西戦争勃発から近衛弾劾政局に至るまで

中野正剛逮捕に抗議した福岡県民の蜂起によって1943年10月25日突如と『第三次憲政擁護運動』が始まった。重臣たちはそれぞれ福井(岡田啓介)・島根(若槻礼次郎)・岡山(宇垣一成)へと帰郷し、鳩山一郎に連なる議会指導者もまた京浜地域や京阪神地域で食糧難批判を訴えるなど公然と反旗を翻した。さらに海軍派だった高松宮宣仁親王は東条を武力をもって排除することを決意、東条は首相官邸を襲撃した海軍機によって暗殺された。

この『十月革命』によって一挙に首班候補に躍り出たのが米内であった。というのも革命という暴力的手段をもってして信頼する東条を殺害した昭和天皇の後の京都政府(政権獲得後重臣・帝国議会・海軍ブロックはこう呼ばれるようになる)への不信感は甚だしく信頼する米内以外の首班は却下するだろうと見られていた。

しかし米内の任命式前夜、昭和天皇は宮城を襲撃した陸軍将校らに松代大本営へ拉致された。一方の高松宮宣仁親王は京都に退避した上で『摂政』に任じられたと宣言、以降三年に渡る内戦状態に日本は陥った。京都政府は福井県を中心とした北陸や岸信介―宇垣一成―星島二郎―若槻礼次郎ラインで制圧した中国地方、そして京阪神を除けば点と線を確保したに過ぎず脆弱な政権であった。以降東西再統一に至るまで西日本を支配した連合国側の政権を京都政府(西軍)と呼び、松代大本営に陣取った東条の後を継いだ鈴木貞一が率いる旧陸軍統制派が率いる勢力を松代政府(東軍)と呼ぶ

西軍を支えたのは財力的には新興コンツェルン、武力的には中国大陸を拠点とする連合国の先進的な武力とレジスタンスと散発的な抗議活動であった。一方の東軍は七草・十文字・四葉の当時三強と呼ばれた魔法師一族と接触し東日本地域への愛郷心や陸軍戦力が失われれば空母と戦闘機に魔法は圧倒されるだろうと説いて主だった魔法戦力を味方をつけることに成功した。当時の魔法は現代と比べればはるかに弱いものであったが、それでも三年に渡って列強諸国を味方につけた西軍に抵抗できたのは何よりも魔法師の存在が大きいとされる。しかしそのことは東西再統一後に魔法師への悪評をもたらした。そのため後に四葉を中心とした十師族は政治への不干渉を宣言せざるを得なくなった。それでも西軍に連なる革新勢力の間では今でも魔法戦力や魔法師の存在は忌み嫌われる存在となっており禍根を残す結末となってしまった。

この東西戦争は三年以上にも及んだが1945年9月の千葉県への連合国と西軍の共同上陸作戦の成功によって一挙に形勢は一気に西軍側に傾き、1946年2月26日松代政府は無条件降伏しようやく組織的戦闘が終結した。奇しくも軍部独裁の道へと突き進むきっかけとなった2・26事件からちょうど十年の節目であった。

この『東西戦争』は『日本人同士が血で血を洗う内戦をしてしまった』という大きな傷跡と社会の分断をもたらしてしまった。東軍側の残虐行為はとくに筆舌に耐えがたいものがあり、西軍が上陸作戦を仕掛けた激戦地の千葉や神奈川では西軍の捕虜はおろか反政府的と一方的に見なされた一般住民がスパイ容疑をかけられて即決裁判で処刑されたり、あるいは撤退戦の過程で集団自決を強いられたりこの二県だけで10万人以上が何らかの形で東軍によって殺害されたとされている。一方で西軍側も『魔法師狩り』などといった残虐行為を行い、その国粋主義的傾向から度々騒乱事件を起こした南九州地域で米軍とともに武力をもって一般市民への武力弾圧を行った。この武力弾圧に関しては『スターズ』と当時から呼ばれた米軍の精鋭魔法師部隊が加担しておりこれもまた魔法への不信感を募らせる理由となっている。

ともかく内戦は終わり日本は少なくとも二・二六事件以降背を向けていた民主主義の回復を果たすことになる。しかしその一方で米内は根っからの軍人であった。さらに第二次米内内閣は旧海軍条約派と重臣で占められた『水兵と老人の天下』と揶揄されるほどの政治素人の内閣であった。その不満は近衛文麿や鳩山一郎などはとくに強く抱いておりいずれも米内内閣の否定から戦後政治家のキャリアをスタートさせることになる。

また統治機構の問題はそれだけではなかった。京都政府と松代政府で南北朝のように皇室が分断されてしまった以上、最早皇室の圧倒的権威を維持することは不可能であることであった。そのため考えられたのは『国家国民の象徴と国家国民の代表』の完全分離であった。具体的に言えば象徴天皇制に移行するが、天皇には従来のような立憲君主としての権限も与えず儀礼上の存在に留めるのとあくまでも国家元首は直接選挙で選ばれた大統領とするということであった。この徹底した象徴天皇制と大統領制への移行は何よりも国民の反感を買った。新憲法制定にあたった米内内閣を追い詰めていくことになる。

1946年4月任期満了に基づく衆議院選挙が施行された。米内内閣は官製与党として『新政日本党(日本党)』を結成し民主化と戦犯処理の徹底を全面に打ち出した。一方で史上初の完全な自由選挙とあって共産主義勢力や協同主義勢力も議会への進出を目指した。さらに旧東軍側は皇室制度擁護と東西平等再統一を唱えて『帝政党』を結党し、戦前長らく続いた政友会と非政友系によるイデオロギー対立があまり見られない総選挙とは打って変わって鮮明に党派対立が見られる選挙となった。ただし新政日本党は後の近衛政権下ほどではないにしろとくに保守票を奪い合う帝政党に対して選挙干渉を行った。当時から思想的にはともかく体質的には権威主義的な政党であったといえよう。

選挙の結果は新政日本党が下馬評を覆して単独過半数を確保し1932年総選挙の政友会以来14年ぶりに衆議院に絶対多数党が出現することとなった。予想外の大勝をもたらしたのは世論調査の輸入であった。当時の世論は複雑で悲運の宰相であった米内には同情しているが、皇室制度や東軍関係者への処罰には反対という穏健保守層が農村部では一定の割合を占めていた。そうした浮動票の存在を把握した日本党幹事長の三木武吉はそうした穏健保守層が新有権者となる女性に多いことを把握すると女性候補の擁立に積極的になったり、あるいは帝政党と比べて圧倒的に新人候補が多いことを逆手に取って米内と一緒にポスターに写ることを求めたりあらゆる戦略的な行動を取った。しかしそれ以上にそうした穏健保守層を突き動かしたのが共産党や社会党の脅威であった。すでに終盤情勢では帝政党が伸び悩み多くの選挙区で期待できない票になることが予想される一方で日本党は過半数に迫っていた。そういう状況で戦略投票をした層が日本党を押し上げたのである。

憲法改正において残された最後の関門は枢密院と貴族院であった。すでに弱体化しており米内内閣によって圧倒的に新憲法派に差し替えられていた枢密院はともかく貴族院の情勢は依然楽観視出来る状況ではなかった。米内が頼ったのは近衛の権威であった。近衛は重臣の中で唯一米内と政権を争った仲であるため入閣を阻まれ京都で隠居生活を強いられていた。しかし近衛を無任所大臣として呼び戻して貴族院工作に当たらせることで多くの修正を強いられながらも日本国憲法成立にこぎ着けた。しかし東西戦争時代から東軍との密通も噂されていた近衛を復帰させたことは日本党内でのパワーバランスを逆転させることとなる。

1947年5月の新憲法施行を目指して第一回大統領選挙と衆参両院の選挙、それに統一地方選挙が同年4月に実施されることが決まっていた。新憲法成立までは民主化の徹底という一致した目標があったため団結していた日本党も次第に瓦解の方向へと向かっていった。片山哲や鳩山一郎はそれぞれ大統領選出馬を目指して離党していった。残されたのは海軍条約派やそれに連なる官僚派新人議員を中心とした少壮派、あるいは若槻礼次郎が引き留めている旧民政党系議員、そして近衛ら旧新体制運動グループであった。米内はすでに病状が悪化しており出馬出来る状態になかったため与党として後継候補を選出しなければならなかった。米内は当初外相の吉田茂や書記官長の井上成美に声をかけたが、いずれも固辞されてしまった。すでに党内の大勢は『首相としては失敗したが大統領としてなら成功してみせる』と自らを売ってた近衛であったからだ。日本党は米内総裁一任の形で近衛を第二代総裁と大統領候補に選出した。

一方で野党側は鳩山一郎と片山哲が一本化出来るかどうかが勝負とされていた。同じ香川県人でそれぞれの側近の三木武吉と西尾末広が会談を重ねて親近感が高まっていた。しかしそれ以上に自由主義と社会主義の壁は厚かった。鳩山と片山はあくまでも本選で争い政権獲得後の議会運営を睨んで敗れた側を行政長官(首相)に任命する、というラインで一致した。しかしこの一本化工作は失敗に終わった上に社会党最左派の離党という結果を招いた。

大統領選は近衛と鳩山、それに片山が激しく競り合い最後まで分からなかったが、結果的には近衛が当選した。理由としてはまず近衛が地主制や財閥の守護神と見られていた日本党の性質を綱領を改正してまでかつての新体制運動を彷彿とさせるような修正資本主義的な党へと変質させたことである。これは旧民政党系議員が求めていたということもあるが、何よりも近衛自身の政治思想が反映されたものである。そもそも近衛は与党候補でこそあったものの米内の政治的後継者は当初から自由党の鳩山であると考えられていた。そのため独自色を出すことに成功したのである。

しかしそうした要素は社会党内最左派を切った片山にもあった。それ以上に大きな理由として、これまで日本党が不毛の地であった東北・北関東・東海・南九州への進出に成功したことが挙げられる。帝政党は敗北からの内紛からその勢いを失い代わって鳩山や片山よりはベターチョイスと旧東軍勢力から判断されたのである。与党の権威と旧在郷軍人会や旧隣組を通じてとくに農地解放に期待して近衛か片山か迷っていた層を東日本や南日本の農村住民を大きく近衛へ傾けることに成功したからの勝利であった。

こうして初代日本国大統領に就任した近衛だが前途は多難であった。与党日本党は衆参両院いずれも弾劾阻止ラインにも及ばない三分の一未満の議席に終わったからである。これでは閣僚の任命もおぼつかないと危惧した近衛は清浦内閣以来の策士である大麻唯男を与党幹事長に任命した。大麻は大統領選で五位に終わった三木武夫率いる国民協同党と鈴木貞一率いる帝政党を友党という形で事実上の与党に仕立て上げた。さらに大麻が目を付けたのは社会党内部の内紛であった。大麻は社会主義者の学者を閣僚に登用し、さらに鈴木茂三郎に行政長官就任を要請した。鈴木茂三郎は『東西融和のためなら』と行政長官に就任した。さらにこれに反発する日本党内の少壮派議員を財力で抑え込み党内対立の芽も摘んでいった。

こうして誕生した近衛政権は寄り合い所帯といってよかった。その寄り合い所帯をまとめあげたのが『反議会制民主主義』という新憲法の趣旨に反する理念であった。近衛は国防軍と魔法師の国防力の並存を事実上認め、さらに警察や検察といった治安当局も支配、さらには初代大統領として最高裁判事全員の指名権を保持していた。このような環境と何よりも近衛の権威主義的政治姿勢からそもそも近衛政権において『議会制民主主義』など成立するはずがなかった。

近衛は統制経済を当初から志向し農地解放を直ちに実施し炭鉱や電力の国有化などあらゆる国策事業に取り組んだ。一方で旧東軍関係者を終戦記念日の2月26日に恩赦するなど国民統合のための政策に打って出た。しかしどれも急進的すぎて国民の間では反感が募っていた。すでに就任当初から不支持率が支持率を上回っていた近衛だが、1948年に入ると散発的な学生デモが起きるなど不穏な空気が流れていた。

近衛は国民の目を逸らす必要性があると判断し、そのために仕掛けたのが『国有化疑獄』であった。これは自由党や社会党右派の議員に利益供与を行って炭鉱や電力の国有化法案、あるいは農地解放のための諸法案に国会で反対するように資本家や地主が仕向けた…というものであった。逮捕許諾請求を乱発するなど強引な工作の結果、右派社会党の西尾末広・自由党の鳩山一郎など主だった野党政治家が逮捕された。

しかし近衛の狙いは半分外れた。実質的に与党の左派社会党こそ旧態依然とした政党政治家への一撃になると歓迎したものの、もう一つの友党であった三木武夫率いる国民協同党が『政治報復である』と近衛政権への態度を硬化させたからだ。三木も打算なしに世論に歯向かった訳ではない。ここで政局を仕掛けて野党に転じれば『反近衛』を軸にして一挙に巨大野党が誕生し、自らはその大統領候補に収まれると考えたからである。

三木には浅沼稲次郎や安藤正純といった国有化疑獄で検挙を免れた巨大野党の留守を預かっている政治家以上に小政党の一党首ながら重宝された理由が二つある。一つは義父の新興コンツェルンや造船業界などに顔が利くことから財力を有していたこと。そしてもう一つは当時はまだ『政党は地方政党の集合体である』という意識が強く必然的に中四国選出の議員に与野党問わず睨みがきいたということである。そのため三木は犬養健や池田勇人といった与党政治家を引き込むことが出来たのである。しかし佐藤栄作は兄である岸信介が商工長官であるため裏切れないと日本党に残ることを決めた。

こうして誕生した巨大野党が『憲政党』であった。『憲政擁護・軽武装・経済再生』を党の三大政策に掲げたこの新党も与党同様吉田学校左派から社会党右派に至るまでの寄り合い所帯であった。そのため憲政党は三木個人のカリスマ性と反近衛という二つに依存する政党となった。しかし影でもう一つ憲政党に期待していた勢力があった。アメリカ政府である。アメリカは反米的な近衛を当初から嫌っており何かと反近衛政党を育成しようと試みていた。その中でも戦前から親米的で官僚派政治家と違って大衆的な三木は駐米大使からも目をかけられていた存在であった。そのため保守勢力の一部には当初から三木は野党に転じることを狙っていたと見る向きが今なお存在する。

その後三木憲政党に参院選では過半数確保を許し小選挙区比例代表並立制導入で一旦は妥協させたものの逆に左派社会党から距離を置かれるなど人心はすでに近衛政権から離れ次期大統領はまだ40代の三木と誰もが思っていた。そんな状況を鈴木茂三郎に代わって行政長官に就任した大麻唯男は指をくわえて待っていた訳ではない。反転攻勢の一つが鳩山一郎を恩赦することであった。鳩山は三木は留守を預かっていただけだと委員長返上を要求してきた。鳩山に同情的な世論には逆らえないと自身を幹事長にする約束を取り付けて渋々三木は下野した。しかし予想外だったのは三木も鳩山もあるいは社会党系や池田系も離党せず結束を保ったことであった。三木の立ち回りが上手かったこともあるが、それ以上に今さら与党に転じれば変節と批判されると思っていたからである。

焦った大麻は徹底した選挙干渉で乗り切るしかないと決意した。警察・軍・日本党系知事だけでなく魔法師のうち政治に野心を燃やしていた七草家にまで手を回して徹底した選挙干渉を求めた。しかもその方法は戦前よりもさらに酷いものであった。立会人を日本党系の愚連隊員にして、記名する様子を監視し、時には野党候補の名前を書いた有権者に暴行を加えるなど秘密投票の原則を犯す行為を平然と行った。さらに与党にも追い風が吹いていた。大統領選候補者であった鳩山一郎が脳溢血で倒れ急遽幹事長の三木に差し替えられたのである。三木は小選挙区制法案で与党と妥協したため純然たる野党政治家と見なされていなかったのである。

こうして第二回大統領選挙・衆議院総選挙が実施された。結果は大統領選では案の定、近衛が再選を果たした。しかし衆議院では激しい選挙干渉を経てもなお日本党は左派社会党を合わせてもなおわずかに過半数に届かなかった。何よりもこのような民主的でも公正でもない選挙は一般市民に受け入れられるものではなかった。三木は周到に全国の候補者に選挙干渉の事実を収集するように求めており最早不正な方法を用いて日本党が勝利したことを疑う者はいなかった。

銀座や心斎橋といった繁華街は『近衛弾劾』を求める声一色になっていた。とくに戦前と違ったのは女学生やOLが堂々と街頭で抗議の声を挙げていたことである。女性の社会進出が急速に進んでいたとはいえ政治に対して物申す女性の存在は女性解放の象徴と好意的に取り上げられていた。

衆議院はまず過半数で成立する大麻行政長官(首相)不信任決議案を提出し、野党と野村吉三郎や松村謙三といった日本党少壮派の賛成多数で可決された。それも弾劾阻止ラインを大きく上回る三分の二の議席を確保しての成立であった。参議院も二年後の選挙を見据えて改選される与党議員を中心に弾劾賛成派は三分の二の議席を確保していた。とどめとなったのはかつて終戦工作を共に手がけた吉田茂が直接官邸に出向いて弾劾される前に自発的に辞任すれば三木に池田を通して近衛を恩赦すると説得されたことであった。8月11日、近衛は大統領辞職願を衆議院議長に提出した。


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