見出し画像

Yさんへ

Y氏とは今から15年前、私が20歳のときに出会った。
今は仕事をせずに認知症の祖母の世話をしている私だが、20代は音楽活動に没頭していた。歌を生業にしていきたいと本気で思っていたのである。活動期間は、その大半をY氏と過ごした。

私が通っていた専門学校では、定期的に音楽関係者を招いた学内オーディションが行われていて、その審査員として招かれたのがY氏であった。
大抵の学生は自分が得意とする既存曲のカバーをするのだが、私は作詞の授業で作ったオリジナルの曲(作曲は講師)を歌った。このとき披露したパフォーマンスをY氏に気に入ってもらえた。
それが私とY氏の出会いである。

大久保にあるビルの2階にY氏が所属する音楽事務所があって、当時Y氏は同じビルの3階で奥さんと暮らしていた。
Y氏と知り合ってから、私はそのビルに頻繁に通うようになった。規模が小さくて誰も知らないような事務所だったが、音楽の世界に居場所ができて私はとても嬉しかった。
専門学校のある高田馬場から、クリープハイプの「NE-TAXI」やウラニーノの「大学生の悲鳴」を聴きながら歩いて通った。定額の音楽配信サービスなんて当時はなく、1曲ずつ購入して有線のイヤホンを差し込んだガラケーで聴いていた。はっきり覚えていないが、確かこの2曲しかケータイに入っていなかった気がする。

事務所では楽曲制作やレコーディングをしたり、用事もないのに遊びに行って他のレーベルメイトとダラダラしたり、そのうち学校も休みがちになり家にもあまり帰らなくなった。
事務所で過ごす時間のなかで、仮歌の録音は特によく覚えている。仮歌とは、コンペティションなどに楽曲を提出する際に、イメージしやすいようにサンプルとしてあらかじめ入れてある歌のこと。私はそのほとんどを無償で歌っていた。大抵は1〜2曲、時には22時頃に4曲分の歌詞を渡されて、レッドブルを飲みながら朝までぶっ通しで歌う日もあった。
これをあのメジャーアーティストのコンペに出すから、お前の歌声を聴いてもらえるよ。そう言われ一丁前に仕事をした気になっていた。

Y氏は大手レコード会社からメジャーデビューを経験していて、バンドのベースを担当したキャリアがあった。Y氏の人脈であのバンドはメジャーデビューできたようなものだから、Y氏とは仲良くしていた方がいいと専門学校の先生に言われた記憶がある。
実際、事務所には色んなミュージシャンが来ていた。有名な音楽番組にバックバンドで出演していたり、過去にメジャーデビュー経験があったりと、自分とは異世界にいる人たちにたくさん出会った。その全員がY氏の知り合いであった。

そんなこんなで始まった私の音楽活動だが、スタートしてすぐに壁にぶち当たった。Y氏のポジションはレコーディングエンジニアだったが、彼は作詞に強いこだわりがあり、私の作る楽曲に対してかなりの意見を出してくる男だった。
曲はほぼ共同制作状態だったが、制作者の名義は私一人だけ。私が書いた歌詞をY氏が書き直しまくっていて、自分が書いた曲という感覚がないのに、私の名義で歌わされることにとてもストレスを感じていた。
フラストレーションが溜まっていく一方で、自分のスキルが未熟であることを自覚していた私は、袋小路になることを恐れてY氏に何も言えなかった。言われるがまま書き直し、言われるがまま歌っていた。

Y氏との作業がしんどかった理由はもう一つある。Y氏は人脈をつくることが得意な人だった。メジャーデビューまで自身のバンドを率いたのだから、彼のコミュニケーション能力は実際とても高かったのだと思う。
彼はそのスキルを私にも求めていた。色んなミュージシャンとどんどん仲良くなって、どんどん一緒にイベントを企画しろと言った。業界の人たちは皆このY氏の意見に頷くのかもしないが、人と距離を縮めることが苦手な私にとって、これが作詞に意見されるよりも非常に辛かったのである。

当時の私は決定的な勘違いをしていた。シンガーソングライターとして活躍するためには、正確な音程とリズムで歌が歌えるようになって、胸に刺さる歌詞と印象に残るメロディでつくられた「いい曲」をたくさんリリースすることがすべてだと思っていた。
もちろんそれらも大切なのだろうが「いい曲」と世間から認められるためには、リリース音源やライブチケットの売上高などで数字を出す必要があった。
場数を踏むために始めたライブ活動も、客が呼べていないと次第にY氏から怒られるようになった。客がいなければ演奏しても意味がない。いつしか私のなかで目的と手段がすり替わり、チケットノルマを達成するためのライブになった。

チケットの規定はライブハウスやイベントによって違うのだが、通常は5人が集客の目安となる。一回のライブで5人よりも多く集客できた場合、6人目以降は1名につき数%のバックが与えられる。客が5人に満たなかった場合はライブハウス側に演者側が支払いをしなければならない。
たまに開催するならまだしも、月に1〜2回、しかもセットリストがほぼ同じライブを行うとなると、私にとって5という数字はとても厳しかった。
チケット価格は大体1500円〜2500円。これにドリンク代でプラス500円。当時、時給950円のアルバイトをしていた私には安くない値段に感じられた。友人は似たような境遇の、しかもまだ学生の子ばかりで、奨学金の返済や生活費の節約をよく話題にしていた彼らにチケットを買ってくれとは言いづらかった。
かと言って、知らない人にチケットを売ることもできなかった。

きっと、私は自分の曲が好きではなかったのだと思う。表向きはわかったフリをしていたが、本当はY氏に書き直される歌詞がまったく心に響いていなかった。これを届けたら、受け取った人が喜んでくれるぞ、という確信がずっと持てずにいたのである。

ある日、ライブでチケットが捌けないならCD制作の話は無しにするとY氏に言われた。ノルマが達成できなかった日は、事務所の経費でライブハウスへの利用料が支払われていた。そりゃそうだよな。Y氏は正しい。
チケットノルマのツケを払うのも、CDを制作するのも、ボーカルのレッスンを受けるのも、利益の見込みがなければ続けるわけにいかないだろう。
当時はタレントがブログを書くことがまだ珍しかった時代で、YouTubeや配信などSNSで収益を稼ぐミュージシャンなんていなかった。とりあえずマーケティングの書籍を漁って読んではみたものの、中身は横文字の専門用語ばかり。音楽以外のことを何も学んでこなかった自分にとって実践はおろか内容の理解すら難しかった。

どうすればいいか途方に暮れていたある日のこと、震災が起こった。金曜日の午後に突然地面がグラグラと揺れ出して、数秒もたたないうちにそれは街中を揺るがす巨大な揺れへと変わった。しばらくして電波が繋がらなくなり、路上の数少ない公衆電話には大行列ができた。
東京は帰宅難民で溢れかえり、嵐のように去っていった大地震に皆、唖然としているようだった。のちにそれは国内最大規模の地震とされ、多くの被災者への追悼とともに日本中が自粛する日々が続いたのである。

震災が起きてから数日後、Y氏は奥さんと生まれたばかりの息子を連れ西の方へ逃げた。飼っていた猫は自宅に置き去りだった。
Y氏はその間、請け負っていた仕事を納品せず、依頼者からの電話にも出ず、1週間ほど経ってやっと連絡がついたと思ったら体調不良だったとウソをついたらしい。
チケットが捌けない私に人との繋がりが大切なんだと耳にタコができるくらい言っていたくせに。CD制作の話が無くならないように、ライブに来て欲しいと友達から知り合いまで必死に電話をかけまくったのに。お前は平気でウソついて仕事もすっぽかして逃亡かよ。なんだそれ。ふざけんな。せめて猫も連れてけよ。

数週間後、Y氏は東京に戻ってきたが、私はメールも電話もすべてシカトした。ライブのチケットノルマがトラウマになった私は、大好きだった音楽から遠のくようになり、営業という苦手なことを無理やり続けていたせいもあって、Y氏の逃亡をキッカケに抜け殻状態となった。
今まで過ごした時間すべてが無駄のように感じられ、眠れなくなり、ニートになって数ヶ月間心療内科に通った。

気持ちの面で折り合いがつくまで時間が必要だったが、3年ほど経ってから再び私はY氏と会うようになった。Y氏と共通の知人からいただいた仮歌の仕事をするときに、レコーディングエンジニアとしてY氏が来ていたのだ。
時間が解決してくれた部分もあり、音楽をまたやりたい気持ちもあり、数ヶ月かけて関係を修復していった。その後、Y氏が所属している新たな音楽事務所を紹介された。
新たな事務所ではY氏が私をプレゼンしてくれたのだが、社長に伸びしろがあるねと言われて終わった。いま思えばそれは「歌はそこそこ上手いけどライブに客がいないね」という意味だったのではないかな。

その後、すべてピアノのみの楽曲ではあるものの、念願のミニアルバムをリリースできたが、ライブで1枚売れればマシな状態だった。
Y氏の知り合いが企画している大規模な野外イベントのオーディションも受けたが一次予選で落選した。Y氏は私のCDをオーディション会場にいたスタッフの人たちに配り、帰り道で一次予選は全然大丈夫だよと私に言った。
落選の結果を知ったとき、Y氏のコネがあっても難しいなら、そろそろ辞めどきなのかもしれないなと思った。
その後も定期的にライブをしたが集客を伸ばすことができず、企画したいイベントも思いつかず、2年経たずに私は音楽活動を辞めた。


Yさんへ
大久保時代の音楽仲間からあなたの訃報を聞きました。
くも膜下出血で突然亡くなるなんて、しかもまだ45歳という早さでお別れするなんて、数年間疎遠になっていましたが驚きました。
音楽の世界に戻ったらあなたの人脈からは逃れられないでしょうから、きっとまたどこかで会うのだろうと勝手に思っていました。とんだ勘違いでしたね。

いつか再会したら、某レコード会社からきた私のデビュー話を、私に相談もなく勝手に断ったことを蒸し返して、意地の悪い姑みたく延々と文句を垂らしてやろうと思っていました。
あなたがこの世から去った今では叶わぬ夢です。残念でなりません。

そういえば、あなたが亡くなってからGoogleマップで大久保のビルを見てみました。制作に行き詰まったらよく、すぐ近くのラーメン屋に行きましたよね。あれ、つけ麺でしたっけ。どちらでもいいですね。
あの店は今では無くなっていて、コインランドリーになっていましたよ。美味しかったのに、どうしてでしょうね。
そうそう、お世話になっていた高田馬場のライブハウスも無くなったらしいですよ。素敵なハコだったのに、どうしてでしょうね。

私がとある曲のDメロで「人は1日ずつ終わっていく」ていう歌詞を書いたことがあったんですよ。人はいつか死んでしまうその日に向かって、1日ずつ命を消費しているという意味で書いたんですけど、あなたはその1行に反対しましたよね。
「俺はまだ終わってない」と言って、ボツにしましたよね。覚えてますか?
あれ最終的にはなんて書き直したんでしたっけね。覚えていません。あんなに必死になって書き上げたのに、人前で何度も歌っていたのに、すっぽり忘れてしまいました。

結局、その程度だったんですよね。
あなたに振り回されっぱなしで、音楽が本当に好きなのかどうかすらわからなくなり、最終的には辞めてしまいました。
私の「夢」なんて所詮その程度だったんです。それに気付けたことはラッキーでした。あなたのおかげです。嫌味ではなく、心からそう思っています。
純粋な熱意で戦っている人たちは、圧倒的に魅力的です。上っ面の「好き」という思いだけでは、遅かれ早かれ彼らの情熱に飲み込まれていたことでしょう。
だから、ありがとう。

通夜で初めてあなたの娘さんを見かけました。奥さんから聞きましたが、将来は歌手になりたいそうですね。天国から応援してあげてくださいね。

あなたが亡くなってから、大貫妙子さんの「突然の贈りもの」とちあきなおみさんの「喝采」をよく聴いています。
「喝采」は宮本浩次さんがカバーしていて、Spotifyで聴けるんですよ。女性の儚い想いが綴られている繊細な曲ですが、なぜかしっくりくるんですよ。
無精髭でワイシャツのボタンを2つも留めない人なのに、どうしてでしょうね。

今度聴いてみてくださいね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?