なおも『微熱期』と苦闘す

ともだちが いつか
露草を踏み 訪ねたという
名も知らぬ教会の
薔薇窓をだれにも
見えない星だけが
とおりすぎていく

という「薔薇窓」という作品の末尾など読むと、いったいどこの国よ、いつの時代よ、と思ってしまうのだ。夢の国の夢の時代。ステンドグラスをわざわざ薔薇窓と呼び、そのちいさな教会へ露草を踏んで向かう人がいる。百年前か百年後かもわからない。しかもそのともだちはもうどこにもいないらしいのです。薔薇窓に見えない星だけがとおりすぎる。藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり」の手法で、ないという対象のイメージは残り、夢幻的世界に読者はいざなわれる。ない と ある が交錯するので虚構の世界にたゆたうことになるのです。それでふわふわした現実味のいっさいない世界に取り残される。ここに魅力を感じる人もいるのでしょうが私は居心地が悪い。かと思えば「ひとりあるき」という作品では夢の中で、
京王井の頭線の駅名が列挙されて出てきて、いきなり現実の日本、東京に詩世界がつながって戸惑ってしまう。この作品とラスト二篇で、どうやらこの作中主体には同時に生まれるべきだったもうひとりの命があったのに、生まれ出ることができなかった、という事実が背景にあるように思われてくるのです。表紙絵に雪の野に二人の少女が描かれているのはその暗示ではないか、と。そこはかと死のイメージが全体に漂うのはそのゆえではないか、と。最後に置かれた「消印」という作品は巻頭の作品に呼応していて、また一度だけ訪れたという南の葡萄畑が思い出されているのでもう消えた恋の、相聞の詩と読めました。月が現れない、もう返事を書けない、見えない月明り,蝉の声のまぼろし、と否定形でつないで、消えては現れるイメージに、私は疲れてしまいました。その揺蕩いをポエジーというのでしょうか。沢山の詩人の賞賛と賞を受けたこの小さな詩集と格闘して、この詩世界を楽しめなかった自分には,詩の鑑賞力がないのかという苦しさだけが残りました。
修辞の美麗さとどこかから漂う死のイメージの深さ以外には。