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xiii. {対談}『ありふれたくじら』Vol.6を読んで〜触れられる〈言葉〉を編みだす/ゲスト:詩人 カニエ・ナハさん

様々なアーティストやダンサー、ミュージシャン等とのコラボレーションを通して、詩の新しい表現方法を模索している詩人、カニエ・ナハさん。『ありふれたくじら』シリーズは、全号読んでいただいています。鯨を通して世界を見ること、その旅の方法と行先について、カニエさんとお話ししました。

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是恒:カニエさんは『ありふれたくじら』シリーズを全号、持っていらっしゃるとのことですね。初期の1、2号はすでに売り切れているので、全号持っている方は珍しいんです。

カニエ:初期から読んでいました。日本から世界各地まで駆け回って、鯨というものをモチーフに描かれている。すごく壮大なプロジェクトですね。

是恒:「鯨のイメージをとらえなおす」ということを考えています。自分で実際に見た鯨というより、他の人たちがイメージする鯨ですね。例えば北海道・網走で漁師さんたちが「カラス」と呼んでいる鯨がいて、それは黒くてすばしっこいある種の鯨の特徴をとらえた呼び方であったりします。いくつものイメージをだんだん重ねて織っていくようなシリーズとして作っています。

カニエ:『ありふれたくじら』の中では多分、是恒さんご自身が鯨を実際に見たという記述はなかったような気がするんですが、どこかにありますか。

是恒:『ありふれたくじら』には載せていないですが、私も実際に鯨を見たことはあります。

カニエ:実際には見ているけれど、そういう記述がない。本だけを読むと、是恒さん自身は鯨をまだ見たことがなくて、話だけがいっぱい入ってきているのかなともイメージしたんですよ。

是恒:鯨の解体現場を見学したこともあります。北海道の知床半島ではシャチの群れを見ました。和歌山県の太地町では博物館で飼われていゴンドウという鯨類を見ました。

カニエ:結構、見ていらっしゃるんですね。それをあえて描写をされていないようですが、することを避けているのでしょうか。

是恒:そうですね。それが自分の体験としては、言葉になる手前にあるというか…。そういえば、なんで書いたことがなかったんだろうと気づきました。

カニエ:実は見ていたけれど、そこはあえて書かずに、基本的には聞き書きを中心にするということを一貫されてきたのですね。言葉にならないというか、物語にまだならないということでしょうか。

是恒:考えてみると不思議ですね。鯨の解体を見学した時は、早朝でまだ海も空も真っ暗な時間に船が鯨を引っ張ってくるんです。真っ暗い水の中から急に、もう死んでいるけれど鯨がぬるりと現れる。それが解体されていく様子を間近で見てはいたけれど、鯨のことをまだ自分はつかみきれないなという思いを持ちました。
 その鯨がどういう海で生きていて、どう解体されて、どう料理され食べられていくのか。その鯨を獲った人たちのように、私はその結びつきや巡りをつかみきれないなと思いました。なので、それが言葉にできない段階だなと思っています。

カニエ:おもしろいのが、 これまでの6冊を読んで振り返ると、宮城県の鮎川浜の話もアラスカの話も混ざってくるんです。『ありふれたくじら』では「パッチワーク」を比喩として用いられていますね。いろんな土地の話のひとつひとつがピースのように連なっていきますね。今回のVol.6で、すごく変わったなと思ったのが、テーマカラーでした。今まで白、群青、黒という色だったイメージが、赤にがらっと変わった。日本語の文章が縦組みになったのも新鮮でした。新しい章に入ったのか、是恒さんになんか変化があったのか。もちろん、読みながらいろいろと変化も感じたんですけれど、組みを変えたことや色の変化には何か理由があったのでしょうか。

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是恒:もともと、『ありふれたくじら』の各号の色は、その土地の物語をイメージしたときに頭に浮かんでくる色です。Vol.1と3は黒で、鯨の体を近くで見ているイメージでした。Vol.2と4は、それぞれアラスカと北海道の話で、氷に覆われた海、雪で覆われた町の色のイメージが強かったので、淡いグレーと白です。Vol.5は宮城県の唐桑半島の話で、漁師の人たちが纏っていた大漁看袢の藍染の深い青のイメージです。今回、Vol.6はすごく鮮やかな赤になりました。この号ではアメリカ・ニューヨーク州ロングアイランドの先住民、シネコックの人たちを訪ねて話を聞きました。長い間ロングアイランド周辺の海から鯨が姿を消していたのだけど、ここ数年、戻ってきている。その中で、シネコックの人たちは祖先が行なっていたような鯨への祈りを取り戻そうとしている。それが、彼らの身体というか、脈々と流れる血に刻まれている物語を編み直していくようなことだなと思ったんですよね。生々しい血のような色でもあるけど、それよりも活力というか、生のイメージが今回、あったんです。

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カニエ:すごくおもしろいですね。今回の印象的なエピソードの一つに、伝説の巨人が鯨を崖に叩きつけて、砂が赤くなったという。そのイメージも赤と直結している。これまでの色と真逆のイメージがあります。ここ何年か、鯨がまた見られるようになったという話もすごく印象的でした。これまで『ありふれたくじら』はわりと過去の物語を扱っていると感じていましたが、現在進行形から未来につながっていく。カセットテープで言うと、再生方向が変わったような、新たな章に入ったみたいな印象があって、本当に生き生きと脈打ちだしたという感じがしました。

是恒:最初の号では、捕鯨が行われている町を中心に訪れました。鯨の手がかりを求めてのことでした。でもその道筋も、自分が日本で育って、鯨というと食べるものというイメージがあるからだったと途中で気づきました。世界に目を向けると、鯨をとって食べることより、浜辺に打ち上がった鯨と出合っている機械の方が人の歴史上、多いのではないかと思い始めました。捕鯨以外の、より広い世界での人と鯨の出合いに目が向くようになったのが、Vol.5、6からです。Vol.5で取り上げた、鯨が神様の使いという宮城県の唐桑半島の話であるとか、Vol.6のシネコックのような人たちです。

カニエ:どんどん、多様な鯨像が浮かび上がりつつ、現在進行形になっている感じもします。すごいですね。最新号のVol.6には、鯨を呼び寄せるというシェーンさんという人が出てくる。

是恒:彼が海に行くと、鯨が現れるそうなんです。すごいですよね。

カニエ:鯨というものが、神様に近いような感じで恐れられてもいて、良きものでもあるし、時に悪いことの象徴とも考えられるという二面性も描かれています。ロングアイランドに漂着した鯨にはまだ生きていたものもいたと書かれている。世界的にというか、地球規模で見ると、鯨は復活してきているんでしょうか。

是恒:種類によるんですけれども、生息数を取り戻している種類は、取り戻してきているという報告もありますね。

カニエ:世界的には捕鯨問題ばかりが強調されてしまうけれど、『ありふれたくじら』を読むと、二項対立だけじゃない豊かさを、鯨に関わる歴史や文化背景を通して対話していくことの大切さを感じますね。若冲(じゃくちゅう)の鯨も想像で描かれていたり、日本以外の国でも鯨は想像で描かれていたんですね。そうして残された絵にも目を向けると、いろんなレイヤーが重なってきます。いろんな国や時代の人たちの目を通して鯨を見つつ、鯨の目から私たちが見返されているという感じも受けます。
 是恒さんの『ありふれたくじら』の文体はドキュメンタリーのようでもあり、人間というものも客観視する感じがある。対象との距離感がすごく良いなと思っています。主観も入ってもいるんですけど、入り過ぎない。日英バイリンガルで制作されていますが、英語と日本語はどちらを先に書いているんですか。

是恒:本によって違います。Vol.2と6はアメリカで取材をしたので、最初に英語で書いたものを日本語にしています。他の号は日本で聞いた話なので、日本語から英語にしてる、逆のプロセスですね。どっちの方向で書くかで、文体が違ってくるなという気はしています。その辺も不思議ですね。

カニエ:翻訳ということでもすごく面白いです。日本語も少し、いい意味で翻訳体のような距離を感じるんですよね。べったりした文体じゃなくクールな、学術的な文章とルポルタージュの中間みたいな。けれど、そこで語られている内容はすごくポエティックだったりもする。それは文体自体がクールだから生きてくるんじゃないかなと、勝手に分析をしています。
 集めた話から取捨選択することも当然、たくさんあるでしょうし、聞き出し方もある。編集ということにしても、誰かの言葉と是恒さんが切り取る描写との編み方とが、すごく良い塩梅になる。他人の声と自身の文体を編まれている、パッチワークになっている。それは他人の物語を翻訳しているということでもあると思うんです。単に日本語・英語というだけの翻訳じゃない、もっと多層的な翻訳作業が行われて、すごく多重に編まれている印象を受けるんですよね。

是恒:そういう意味で、翻訳を考えると面白いですね。これまでの『ありふれたくじら』には不思議な話も入っています。Vol.2で、海で溺れていた人を鯨が助けてくれたという話が出てくるんです。実際にあったことだけど、すごく不思議な出来事だし、その時鯨は何を考えただろう、助けられた人たちは何を考えただろう、と、一回そのストーリーの中に自分自身も入り込んでみて、エピソードとしてまとめているようなところがあります。自分で、追体験をしようとしている感覚がありますね。

カニエ: イソップ寓話も、もともと伝わっていた物語を改めて書き起こしたんですよね。アンデルセンとよく対比されるけれど、全てイマジネーションで物語を書いたアンデルセンに対して、伝承を改めて残すために書いたのがイソップだった。是恒さんと、もしかして似たようなモチーフかもしれない。各地にばらばらにあったものをつなげていく作業が、進行形で続いている。『ありふれたくじら』は、壮大なプロジェクトとしてまだまだ続きますよね。ライフワークになるんじゃないかという予感がするんです。

是恒:そうですね。そうなっているし、まだ続いていきます。

カニエ:詩で言うと、アメリカのウォルト・ホイットマンの『草の葉』という詩集。確かホイットマンは生涯、『草の葉』という1冊の詩集しかなかったんですね。その1冊の詩集をずっと増築というか、増やし続けていったみたいなんです。『ありふれたくじら』もそんな壮大なプロジェクトになりそうです。鯨というもののイメージも毎回刷新させられているし、毎回のこの冒頭のステートメントみたいなのが必ず頭にあるのも、すごく安心というか、いいですね。秀逸なイントロダクションで。これは毎回、一字一句変わっていない。でも、回を重ねるごとに、このイントロダクションからこちらが受けることも変わってきて、定点観測的に得られる情報、感じられることが増えていくのが良い。テキスト・テキスタイルの結びつきも改めてすごく面白いなと思いました。テキストとかという言葉も改めて、発見をさせられる。鯨というものも「何だっけ」と思って改めて考えさせられる。そうしたら、「ありふれた」って何だっけと思って、改めて調べてみたんですよ。ありふれたって、ここでも平仮名でイメージしていたけれども、漢字を当てると、「有るに触る」と書くんですね。

是恒:それは知りませんでした!

カニエ:僕も、「ありふれた」って言葉が、分かんなくなっちゃって。調べてみたら、有るに触れると書くと書いてある。すごいなって思いました。消えかかっていた鯨の存在とか、鯨にまつわる伝承を、本という形、リトルプレスというものにして、有って触れられるものにしているんだというふうに感じて有って触れられる鯨になっているよ、と思って感動したんですよ。

是恒:それは、すごくおもしろいですね。そう考えたことはなかったので、とてもうれしいです。

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|プロフィール|

カニエ・ナハ
詩人。2010年「ユリイカの新人」としてデビュー。2015年、第4回エルスール財団新人賞〈現代詩部門〉。2016年、詩集『用意された食卓』(私家版、のちに青土社)で第21回中原中也賞。様々なアーティストやダンサー、ミュージシャン等とのコラボレーションを通して、詩の新しい表現方法を模索している。

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