七月の花脈

 長引いていた前の授業が終わるのを待って、廊下に立っていた。酷暑のなかを大学まで歩いてきた汗が引くにはぬるい室温が、じわじわ身体にこもる熱を感じさせて不快だった。

 暇つぶしに窓の外を眺めても、授業棟と授業棟の間にある味気ない中庭が見えるだけだった。申し訳程度にベンチが置いてあるような。それよりも、白っぽい小さななにかが張りついているようにみえる窓の方が気になった。

 近づいてみてみると、それは一枚の桜の花びらだった。七月に差しかかかるこんな暑い日まで、こんな長い間きれいな花びらの形と色を保っていることにすこし驚いた。窓の向こう側に、葉脈のようなうすい筋が透けていた。写真を撮ってみても、花びらはぼやけて写らなかった。

 私は私といういれものの外に出ることはできない。私は私という当事者性から逃れられない。そのことをここ数日ずっと考えている。当事者にしか書けない歌ってなんなんだろう。当事者性との向き合い方、という評価がなされるときに前提としてあるのは、主体──しばしば作者と当たり前のように同一視される──がなにか他者──しばしば評価者──とは違う背景を持っているとされていること。わからない。でもそういう気がしてしまう。

 欲しがられている、という感覚がある。物語を。「個性」を。

 何者でもない私の歌は、私が何者でもないという一点で意味を持たないんだろうか。他者と違うなにかを持つ人には、それを詠わない選択はできないんだろうか。実感を詰めこんだ歌たちを称賛することばが、「テーマ」なんて箱に押しこめられてほんとうにいいんだろうか。私は、私が私であることと、向き合わないといけないんだろうか。正しいことを言っている気はあまりしていないけれど、ずっと心臓のあたりでわだかまっている疑問符にことばを与えるならこういう形をしている。

 短歌のことを祈りだと思っている。美しくない世界の美しいところを、声を殺して泣きじゃくったあとの眠たさを、ぼやけて不鮮明になって、そうして遠ざかるほど光を放つ過去を、紙飛行機にかえてそっと風に放つように歌をつくっている。その紙飛行機は、物語も発見も凡庸も演技も、分け隔てなくのせて飛び立ってくれる。そう信じている。

 遠くまで届かなくてもかまわないけれど、届いてくれたらうれしくて、だから丁寧に紙を折って、新しい折り方を考えたりもして、一枚一枚を大切にしつづける。私の紙飛行機は私にしか折ることができないと、それだけが根拠だった。

 だから、折り目のつたなさを、形のいびつさを指摘されるのはかまわない。けれど、どれも同じようにみえるなんて言われたくはなかった。

 物語の外にも歌はあるし、誰かと似ているから変えなくちゃいけないなんてこともないと思っていたかった。抑えて抑えて、それでも滲みだすものが個性だというけれど、自分のまんなかにあるものを手放すことの痛みによって失われるものはきっとあると思う。甘いのかもしれない。ほんとうは表現方法なんてものは手段にすぎないのかもしれない。それでも、好きなものを好きだと言い切るときのひとの表情をすてきだと思う。どうしようもなく。

 ひとはみたいものをみる。読みたいものを読みとる。それでも、写真に写らない花びらのことを、写らないというだけでなかったことにしたくないし、してほしくない。目に飛びこんでくる、ピントを合わせたいもの以外の紙飛行機にも、それをひとつひとつ大切に折った主人がいるということを、否定してほしくない。とても難しいことなのはわかっているけれど、悔しいから、少なくとも私はそれを忘れない。忘れないように努力する。

 ぼやけた背景の向こう側で私は紙飛行機を折っている。どこかに届くにせよ届かないにせよ。自分のためだけでいいと思えるほど満たされてはいなくて、他者のピントに合わせる潔さも持ち合わせてはいなくて、その折り合いもまだつかないけれど。考えつづけたいな、とは思う。七月の窓に残る桜の花びらとかそういうものを、あなたに教えたいから。

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