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まずは自己紹介!~栄光と難病の前半人生~

初めまして!安岡 桜子です🌸
まずは、私について紹介をしてみようと思います.

桜の蕾が咲き始める、桜子爆誕🌸

姉のために生まれてきた私

桜が咲き始める1990年3月19日、夫婦で美容院を開業したばかりの両親からスルリと爆誕したのが、私の始まりの日です。

私は3年先に生まれた「仲良しの姉に呼ばれて、姉のために、姉を助けるためにこの世に生まれてきた」とどんな占いやスピリチュアルの人にも言われるのできっと姉のために生まれてきたのだと思います。

「生まれたよ!」の連絡を聞いた父が産院まで急ぐ途中「桜子にしよう!」と字画も見ないで名付けてくれたもんだから、字画はなかなか悪いようですがこの名前で損をするどころかいつもどんな人にも「いい名前ね🌸」と言われ続け32年になりました。

私の人生は一言で言うと
桜のように、ひらひらと人に幸せを届ける人生です。
(たまに撃沈して散ってる時期もありますがそれもまた人生…笑)


生まれた場所は神奈川県平塚市。お家から海まで歩いて10分もかからない湘南っこで小さな時から海に入り物心ついた頃にはもう泳いでいて、スイミングは得意でした。

経営者の親が忙しかったので幼い頃から習い事に毎日通っていて、

・スイミング
・習字
・バレエ
・茶道
・英会話
・ピアノ 

嫌イヤ通ったものも多々ある中、一番続いたのが5歳から始めた新体操でした。


ビジネスの土台になる新体操

全国準優勝した時


私は小さな頃からミュージカルのように踊っておちゃらけるのが大好きで、いつも母や姉をお客さんにして音楽をかけて変な顔をしたり、衣装を自分で選んでパフォーマンスをしていました。

5歳で地域に初めてできた新体操クラブの第一期生として習い事を始め、踊ることが自分自身の感情表現になった新体操で、中学校で全国大会初出場にして準優勝という神奈川県で未だかつて破られていない記録作りました!!

2年生から部長兼トップチームキャプテンになり、数人だった部員をあらゆる方法で総勢30名に増やし、鬼監督との橋渡しをしていた経験が実は今の仕事に活きています。

鬼監督であり、名監督であり、私の人生の恩師である監督は中学生の私には脅威で怖くて悔しくていつも泣いて帰ってくる私に経営者の父がいつも 「お前はキャプテンだ、監督が言いたいことはお前のことが嫌いだから言っているのではなく、全国大会に出るために言っているアドバイスだ!それを解釈してチームに伝えられるのは桜子しかいない!嫌われてもいい、橋渡しの役になれ!」と言ってくれました。

経営者視点で中学生の私と対話してくれた父がいたから、私は新体操部全員に見てもらう「全国に行くために」という新聞を当時ワープロで作成し、ファイリングし部員に回し、【チーム一丸になる】ということを実現しました。

また監督コーチ陣・選手・応援(部員・親・応援団)の【三位一体】を実現できたのは強い後押しだったと思います。選手だけが頑張るのではなく、チームに関わる全ての人が一つになった時に、どんなことよりも強く大きなエネルギーを生み出すことができる。

そんな人生最大の「成功体験」をさせてもらえたのが新体操でした。

この経験が、今ビジネスのフィールドでも私を支えてくれる自信になっています。やればできること、本気で取り組むことで見える景色、チームの大切さ、目には見えないエネルギーを使うこと、あらゆることを新体操から学び、私の力強い「桜の木の根」になっています

新体操の話をするとnote10ページくらい書いてしまいそうなのでまた今度!



悲劇のヒロイン


中学生まで順風満帆に生きていた私に高校生である事件が起きました。
それが・・・鬱病、摂食障害です。

食べても食べても太らなかった中学生に比べて、食べたら食べた分だけ何故か太る思春期の高校生。160センチの私に課せられた新体操部の目標体重が45.8kg。新体操の標準と世の中の標準は違って、アスリートにとって体重制限や食事制限は深刻な問題にもなっています。

私は目標体重という数字に支配され、達成できなければ走って痩せろと言われる環境に極度のストレス状態になり、鬱病と摂食障害を発症してしまいました。

鏡を見るたびに「風船のよう」に見える幻覚や、頭の中に男性の声がして脅迫される毎日に食べては吐いて、食べては吐くということが習慣化され手には吐きだこができ体重は38キロの青ざめた高校生になりました。

それでも私が通っていた高校はインターハイに出場する名門校で、朝・昼・晩常に新体操の練習があり、吐きながらも「好きなことには変わりない新体操」と必死に向き合う日々でした。

当時の私はまさに悲劇のヒロイン。

私はかわいそう、私は辛い、私はいなくてもいい。
なんで私ばっかり・・・

そんな悲劇の中心にいる「可哀相な自分」があの時の私の姿でした。

そんな悲劇のヒロインとして2年間を過ごしていた私に、突如ある難病が襲いかかってきました。


リンパ浮腫という、怪物か仲間か。

17歳原発生リンパ浮腫発症当時

高校3年生の春、最後のインターハイ予選に向けて体育館で練習していた時、私の右足が急に腫れ出したことを今でも鮮明に覚えています。

あれ?怪我をしたのかな?そんな始まりから整骨院に行くも原因不明で言われたことは「内科なのでいますぐ大学病院に行ってください!」というドラマで見るような展開。

それからたくさんの大学病院に行くも病名にたどり着けず、一番華やかで可愛らしい時期の高校3年生の私はローファーも履けないほど足が腫れる難病、原発性リンパ浮腫を患ってしまいました。

リンパ浮腫という病名に辿り着いたとて、私の病気は治ることはなく、「治療はありません。一生付き合ってください。寝たきりが一番足には負担がありません。」そんな医師からの冷たい言葉を最後に私は病院から帰る車の中で声を出して一人泣きました。

リンパシンチグラフィの検査結果

心臓から排出された血液が全身を渡ってまた戻ってくる、血液循環の中で私の足はある日、突然なんの変哲もない日々の中で右足に留まり戻ってこれなくなってしまいました。

そこから始まったリンパ浮腫という病気と歩む人生。
17歳で発症して32歳の今になってもその病気は治っていません。

私は当時、リンパ浮腫のことを「悪魔だ!怪物だ!」と思っていました。


でも32歳の今振り返ると、この病気のおかげで「鬱病・摂食障害」は治っていたのです。


不思議と今は私を助けてくれた存在だと認識しています。

17歳で大病を患い、
狂い出した人生がその後どうなったかは次回の投稿で✨


👇こちらのテレビ放送で私の前半人生が少し紹介されています✨

見てね✨


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