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あんたが間違っている。でもあんたの歌声が好き/ガールズバンドクライ13話(最終話)

『ガールズバンドクライ』13話視聴。最終回。あーよかった、では終わらせられない話だった。後からじわじわ来るタイプの最終回だろう。今はいっぱいトゲが刺さったまま。この作品は、毎回情報量が多すぎて頭の整理が追い付かない。ゆっくり考えたいきもちもあるけど、とりあえず今の気持ちをメモしておこう。

#ネタバレあり

智の「あんたが間違っている。でも、だから私は惹かれたんだと思う。あんたの歌声が好き」。このシーンに、この作品の言いたいことが詰まっていると私は思っている。なぜそう思うのか書いていく。

●子供の議論を貫いた作品。それを渇望していた私たち。
この作品は、意図的に「子供の論理」が中心になるように巧みに舞台設定されているのだと思う。ここで「大人の論理」「子供の論理」は簡単に言うとこうだ。
・「大人の論理」未来に集中。未来を想定して今すべきことを考える。
・「子供の論理」今に集中。今の気持ちを大事にする。
これはどっちが良いというものではない。それぞれに良さがあるし、悪いところがある。使い方次第なのだ。でも問題なのは、今の世の中が「大人の論理」ばかりになっていることだろう。ヒナだらけなのだ。それはなぜか。

昔から「子供の論理」は論破され叩かれた。でも昔は叩かれる場所が限られていた。だから「子供の論理」が今より跋扈していた。今は一瞬で叩かれる。昔の方が良いといいたいわけじゃない。私が言いたいのは、今が「大人の論理」側に特に傾いている時代だ、ということ。そしてそれは人の自然なバランス感覚と乖離しているはず。それに苦しむ人が増えているはずだ。

ガルクラは、高校中退女子の話だ。そして「自分には嘘をつけない」という「子供の論理に縛られた設定」を持つ2人(仁菜と桃花)のぶつかり合いが物語の主軸になっている。こんな「子供の論理」向けの格好の舞台はそうそうない。おまけに仁菜には「愉快な狂犬」という絶妙な特性がある。私を含めた多くの人たちは、この「子供の論理のぶつかり合い」に、理由も分からず惹かれていた。それは、私たちが心の底で「子供の議論」に飢えていたからだろう。

●「たとえ正しくなくても重要なもの」を描く
そして智の「あんたの歌声が好き」のシーン。ここで私は二つのことを思い出す。一つは新海誠監督の「天気の子」だ。

「天気の子」は新海監督が「君の名は」で受けた「災害を無かったことにするのは不謹慎」という批判へのアンサーになっている。「今の子供は可哀そう」という大人の心配と対照的に、雨が降り止まない東京で「大丈夫だ」と叫ぶ主人公。そこには、正しさとは別のロジックの「湧き出す力」がある。もちろん、正しくなくて良いわけがない。不正は裁かれる必要がある。でも「裁かれないため」だけのために人は生きているのではない。物語とは虚構、つまり嘘だ。だからこそ「正しくないもの」に光を当てられる。新海監督はそう言っている。私はそこにガルクラの描く物語が重なって見える。

二つ目は村上春樹さんの「壁と卵」の有名な演説だ。

どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/  から転記

ここで言われているのは「正しいか正しくないか」と言う評価で、目を曇らされてしまうものがある、ということだろう。卵のすばらしさはそこじゃない。正しい・正しくないの先を描こうとすること。そこでガルクラの物語と重なるように私には思える。

正しくなくても重要なもの。そんなものは甘えだと言われると、その通りだとおもう。反論の余地はない。でも私が今感じているのは、甘えを許さない世界の怖さだ。「甘えていないけどやる気のない人」が増えているのではないか。「空っぽの正しい人」ばかりになるのではないか。それが怖い。

●負けなかった仁菜
ガルクラの物語は、とりあえず終わりを迎えた。私は「仁菜はどこかで負ける必要がある」と思っていた。勝ち続けてほしいけど、負けないといけないのではないか。そう思っていた。でもその予想は外れたのだと思う。もちろん対バンは負けた。でも仁菜は屈しなかった。周りの奴らが仁菜に甘すぎる。その通りだと思う。現実にはこうはいかないだろう。でもそういう「狂犬と甘すぎる奴らのおとぎ話」だとしたら、こんな素敵な話は無い。私はそう思う。

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