記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

フリーレン的情緒性と、なぜ?を問う性(サガ)/なぜなぜ分析のための試論

あなたは「なぜなぜ分析」をご存じだろうか。

「なぜなぜ分析」をググってみる。すると”関連する質問”の最初には「なぜなぜ分析はパワハラに当たりますか?」と表示される。それが世の中の人が「なぜなぜ分析」について、まず知りたいことになっている。なぜなぜ分析はパワハラではないか。その疑念にさらされながら、今後ますます強まるであろうコンプライアンスの圧力に耐えられるだろうか。なぜなぜ分析は今、絶滅の危機を迎えているのかもしれない。
パワハラの疑念が生まれる事情は経験者ならわかる。問題は「なぜ?と聞くことがパワハラ構造に見えること」だけではない。なぜ?を問い続けることは苦しい。人は「なぜ?」に反射的に答えようとする。答えられるまで頑張ってしまう。そういう性(サガ)がある。だから、みんなでなぜなぜ分析をやると終わらない。一人でやると、自分にハラスメントしている状態になる。そんな辛く悲しい嫌われ者が「なぜなぜ分析」だ。
だがしかし、なぜなぜ分析という手法は、過去を物語化するための強力なツールである。これ無しで私たちは「失敗へのちゃんとした反省」をすることが難しい。そしてこれは、今流行りの「葬送のフリーレン」という物語と関係が深いものであって、だからこそ「エモいもの」になる可能性を秘めている。感動の涙を流しながら「なぜなぜ分析」をする可能性。それが私がこれから検討を試みるものだ。

※以下「葬送のフリーレン」のネタバレ(と言えるほどの情報はないが)が含まれているような気がする。ご注意を。

●思い出すことはエモい
「葬送のフリーレン」という作品では、フリーレンが「忘れていた過去」を思い出すシーンが多く描かれる。それらのシーンはエモく、この作品の見どころになっている。見ている私たちは「もっと思い出せフリーレン!」とすら思う。思い出すことはエモい。そのことを、思い知ることになる。

「思い出すフリーレンを見る」がエモいのはなぜか、について思ったことをくどくど書いた記事を貼っておく。

●でも、なぜなぜ分析の「思い出す」はエモくない
なぜなぜ分析とは「思い出すこと」だ(正確には、分析対象が「もの」ではなく「ひと」の場合の話だが、そんなことはどうでもいい)。でも、思い出しても全然エモくない。それはなぜだろうか?

【仮説①】「分析という目的」があるからエモに浸れない
これは「部屋を片付けているときにアルバムを見つけた時」を思い出せば、容易に反論ができる。部屋を片付ける目的は、簡単に「アルバムに浸る快楽」に負けてしまう。思い出すエモさがあれば、目的なんて関係ない。私たちはそういう風にできているはずだ。

【仮説②】思い出す過去が「自分にとって重要じゃない」から
これも反論は容易だ。どんなにしょぼい過去の写真であっても、私たちは部屋の片づけを中断して過去に浸ることができる。いやむしろ「重要とは思えないシーン」を捉えたしょぼい写真の方が「過去がよみがえってくる感し」が発動することもある。「自分にとっての重要さ」は「過去のよみがえり」の発動にはあまり関係しない。逆に言えば、この「過去のよみがえり」がエモさを生み出す鍵なのだろう。

【仮説③】「なぜ」を辿ると「過去のよみがえり」が抑制されるから
私は、なぜなぜ分析で過去を思い出しても「過去がよみがえってくる感じ」まで経験したことはない。だからきっと「過去のよみがえり」が抑制されている。そしてそれはおそらく「なぜ、を辿って思い出すこと」に原因がある。記憶の想起は何かを辿ることで行われるが、「なぜ」から辿った想起は「言語的な想起」になるのだろう。そして、写真から辿る想起のような「非言語的な想起(身体的想起)」でないと「過去がよみがえってくる感じ」は発動しないのだろう。つまり「言語的想起」が「過去のよみがえり」を抑制している、ということだ。

●「なぜなぜ分析」をエモーショナルにするには
ヒントはフリーレンにある。フリーレンの旅は「なぜもっと知ろうとしなかったのか」から始まっている。彼女にとってヒンメルとは何だったのか。彼の葬儀の後で、なぜ涙が止めどなく流れたのか。そういう「なぜ」に導かれて旅に出たのだ。でも彼女は「なぜ」から「過去のよみがえり」にたどり着く。われわれのように「言語的想起」にたどり着くわけではない。それはきっと、フリーレンが「なぜ」に強く囚われてすぎていないから、だろう。
逆に考えると、なぜ私たちは「なぜ」に強く囚われるやり方を作り出したのだろうか?それは、私たちの「なぜ」に反射的に答えようとする性(サガ)に関係がある。この性をうまく利用すると分析を完遂させることができる。逆にうまく利用しない手法では、分析を途中で放り出す可能性が高く、そういう手法は廃れてゆく。そうやって「なぜ」に強烈に囚われ続ける分析手法が生き残ったのだろう。
つまり、フリーレンンのやり方の良さもあるが、「なぜなぜ分析」の長所もあるのだ。だから「なぜなぜ分析」に「フリーレンのやってること」を追加するのがよいだろう。フリーレンは「なぜだろう?」と強く心に刻んだのちに、過去を辿る旅に出る。そしてそこでも「くだらない魔法の収集」を続ける。そのことによって、過去の出来事を別の角度から理解することを経験する。そしてそれが「過去のよみがえり」を発動しているのだ。だから私たちも、なぜなぜ分析の途中で「過去の経験を辿ること」と「くだらないことをすること」の二つをするのだ。同じことを同じようにやろうとしてはいけない。くだらないことをすることが重要だ。そしてそれによって、別の角度から過去を鮮やかに思い出す、そんな経験を待つことができるはず。それが「なぜなぜ分析」をエモーショナルにする方法なのだろう。

と、ここまで書いて気が付いたことがある。私のこの分析こそが、とても言語的であって、身体性を欠いている。つまり、現在のなぜなぜ分析の欠点を体現しているようだ。そうだ、私こそ旅に出よう。かな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?