記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「あの花」と悲しみの心の構造

最近、『あの花が咲く丘で君とまた出会えたら』という映画が公開されていて、「あの花」と呼ばれたアニメを思い出した。いろいろ考えることの多いアニメだった。せっかく思い出したので、視聴時に感じていたことを今更ながら書いておく。※ネタバレあり。

『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』
12年以上前(2011年)の作品で、東日本大震災の直後に放映された。当時は「泣けるアニメ」として名を馳せた。でも私には「泣ける」よりも「異常なほど語り口がよくできている」という印象の方が強い。1話からあっという間に作品の世界に引き込まれる。そしてそれは心の中の何かに強く共鳴して、しっかりと根を下ろしてしまう。それは今も私の中に住み着いている気がする。しつこいカビのように根深く。

簡単にどんな話なのか書いておく。
主人公(じんたん)は引きこもりの高校生だ。彼は「逆らい難い何か」によって閉じ込められ、色々なものから取り残されていると感じている。引きこもりとはそういうもの、と言われればその通りだ。でも、誰にでも「逆らい難い何かによって自由にふるまえなくなる経験」はある。そしてその延長線上に、外に出ることすらむつかしくなること、つまり「引きこもり」があるのだ、と自然に感じる。すると急に「引きこもり」は身近なものになる。
彼は最近幽霊が見えるようになっている。小学生の頃に亡くなった幼馴染(めんま)の幽霊だ。そこから物語は始まる。じんたんは、昔の仲間たちから取り残されていて、自分だけが孤独になってしまったように感じている。でも、外面からは分かりにくいけれど、昔の仲間たちもそれぞれに取り残され、深い孤独を抱えている。この「みんな取り残されていること」が徐々にわかってくる展開は本当によくできている。何かに取り残される感覚。それはおそらく誰の記憶にもある。そういう「心の中にある隙間」に触手を伸ばしてくる。それがこの作品を「しつこいカビ」のように忘れられない作品にしている要因だろう。
その後に展開されるのは、じんたんと昔の仲間たちが「めんまの幽霊」を成仏させるまでの物語だ。どちらかといえば軽い語り口でドタバタ劇が続く。でもふと気づくと「重い話」に巻き込まれている。そこで私たちは、成仏とは何か、悲しみとは何か、悲しみを抱え込むことの意味とは何だ、とか、そういうちょっと深いことを考えさせられる。

じんたんにとって「めんまの死」は受け入れられないものだった。私たちは「受け入れられないもの」を無意識に見ないようにする。でもそれを忘れることはできない。だから抱え込んだまま目を背ける。それは心の中で「取り残されたもの」になる。そうしてそれが「取り残された感覚」を生み出す。それがじんたんたちの「取り残された感覚」の正体なのだろう。かれらは時間に取り残されたと感じているだろう。でも本当は「心の中に取り残した悲しみ」によって、何かを置き忘れた感覚を強め続けているのだ。

でもこの「目を背けること」「取り残されること」は、とても大事なことなのではないかと思う。悲しみから「逃げること」は「悲しみを深めること」でもある。これは少し変な言い方だ。ふつう「逃げる」は受け身で「深める」は主体的なので、態度は全く逆に見える。でもこの領域では主体性は溶けて無くなる。消極的な行為である「逃げ」が、悲しみの深淵へ進む「勇気」と同じものなのだ。じんたんたちは、ぼろぼろになって逃げ続ける。それは「怖がり」であると同時に、めんまの死を簡単には受け入れない「強さ」だ。誠実に逃げ続け、傷つけあい、悲しみを深め続ける。そしてその果てに、彼らはようやく「彼らが取り残したもの」、そして「彼らを取り残したもの」に再会する。

人が何かを深く悲しむとき、それについて考えると余計悲しくなる。でもそこから目をそらしても余計悲しくなるだけだ。じゃぁどうすればいいのか?そのときに私たちにできることは、悲しみを乗り越えるのではなく、深めることだ。そうやって到達した悲しみの深淵は、それが深ければ深いほど「自分が何かを深く思うことができていた」という証明になる。私たちは深い悲しみに落ちて行っても大丈夫。その一番深いところで、私たちは「忘れようとしていた何か大事なもの」に再会できる。私たちの心はそういう構造になっている。この作品は、そういう人間賛歌になっているのだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?