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『負けヒロインが多すぎる』#6/温水的言動の優しさ、について

『負けヒロインが多すぎる!』6話視聴。焼塩回。焼塩の心理と、それに寄り添うような風景と、どっちもがとても切なくて、いい話だった。そしてとにかく温水の優しさが新鮮でとても良い。なにが良いのか、感じたことを書いておこく。

#ネタバレあり

OPで温水は、傾いていた「森」の字を無意識にまっすぐになおす。温水とはそういう人だ。温水は人一倍、いろいろなことに気づき、世界を良くするための行動を意識せずにしてしまう。他人の辛い思いが気になってしょうがない。「無意識の良心」とでも言うものを持っている。でもその一方で、自分がどれだけ無力かを分かっている。というより、自己評価が過剰に低くい。

一般的に言うなら、温水のように過剰に自己評価が低い人は、対人関係が苦手で、自分から行動を起こさない。だからあまり面倒ごとに巻き込まれない。でも温水の場合、無意識の良心のせいで「身の回りの世界」に干渉してしまう。思わずほころびを直そうとしてしまう。自分には荷の重いような出来事に身を投じてしまう。でも気の利いたことは言えない。バス停で焼塩に「じゃぁ、何か話をしてよ」と言われ、場違いな部活の話をしてしまう。そういうところだよ温水くん。そのツッコミが彼ほど似合う人は少ない。そして、場違いな言動とは、弱い自分をさらけ出してしまうこと。だから、傷ついた人の前で場違いな言動をとる温水は、どこまでも優しい。それが意図した優しさではなくても、いや意図していないからこそ、涙が出そうになるほど優しく感じる。

焼塩は「自分は綾野が好き」ということを、つい口にしてしまって、その場から逃げだす。そのとき、そこにいた全員に「焼塩の気持ち」が手に取るように分かる。この瞬間だけは「焼塩の気持ち」が痛いほどわかってしまう。でもどうしたらよいのか、頭には何も浮かばない。そのとき温水だけが走り出す。主人公だから物語の都合上そうしたのだ、と考えることは出来る。でも私たちは、温水一人だけ走り出したことに違和感を感じない。彼はそういう人だと感じている。
走り出したとき、温水の頭にも何も浮かんでいないはずだ。焼塩には追いかけてくれる主人公がいない、と独白しているけど、それはきっと動き出した後で「自分が追いかけてよい理由」を考えているのだ。頭で考える前に、彼の体は動き出した。それはOPで傾いた「森」の字を無意識になおすのと同じメカニズムだ。「無意識の良心」とでも呼ぶべきもの。それによって物語はごく自然に展開してゆく。

無意識の良心と言うものは、きっと特別なものではないはずだ。誰にでも普通にあるメカニズムだろう。剥がれかけたポスターがあれば、なんとなく貼りなおしたくなる心の機制を、私たちは持っている。でもほとんどの人は貼りなおさない。余計なお世話だからだ。良心が他人の迷惑になることは多い。他人の子供を叱るのは、今ではタブーだ。アドラーは「他人の課題に介入するな」と言っている。それは良い諫言だと思う。他人の課題に介入することは、お互いのためにならない。そして剥がれかけたポスターは、他人の課題のように見える。介入しない方が良いもののように見える。でもそれは本当に他人の課題なのだろうか。私は微妙な位置にあるものだと思う。ポスターを張りなおす責任を持つ人は、責任をその粒度で数え上げるなら無数の責任を持つことになる。それならば、ポスターが剥がれていたら貼りなおすのを「自分の課題」にしてしまう方が、ずっと話が早い。その場に誰にも責任者が見当たらないとき、それを自分の課題にしてしまう。温水はそういう種類の達人なのだ。
だから焼塩が逃げだしたとき、躊躇する人たちの中で、彼だけが追いかけた。「追いかける適任者」がそこにいないと分かったとき、彼の体は動き出す。そして焼塩に追いつき、彼女の前で場違いな言動をする。そういうとこだよ温水くん。そう焼塩に思わせる。そのことで焼塩の張り詰めた気持ちはちょっと緩む。少しだけ気持ちに余裕が戻る。
そういう温水的言動の優しさにとてもグッと来たお話でした。

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