落第教師 和久井祥子の大学受験


 年が明け、初売りという言葉に財布の紐が緩んでいるのか、買い物袋を手にする人たちが、いつもより多くいるように感じる。
 そんな光景を、暖かい店内からガラス越しに眺めていた和久井祥子は、財布の中にいくら入っているかを思い浮かべた。
「私もこっちにいるうちに、何か買おうかなぁ」
 特に欲しいものはないが、他人が楽しんでいる様子を見ると、取り残された気分になる。冬休みが終わり、勤務が始まると、時間の余裕がなくなるのも焦る理由だ。
「僕はこの前、冬物を一通りそろえたから今回はパス」
 祥子と同じく、窓の外を見ている関根晴彦は、あーあ、と不満そうに息をこぼした。大学の事務局に勤める晴彦は、一般企業より一足早く、年末年始の休暇に突入していた。時間があったゆえの結果だろう。
 タウン誌でも定番の老舗洋食店は、街の賑わいに伴い、店外まで客待ちができるほど混んでいた。祥子たちも四十分ほど待って、ようやく座ったところだ。
 学生の時は少々値段が高いと感じたが、バイト代が出た時やお互いの誕生日など、理由をつけては通った店だ。
「ハルは家にいなくて良かったの?」
「長めの冬休みのせいで、いい加減、母親にうっとうしがられていたところ。和久井さんは? 久しぶりに実家へ帰って来たのに、家にいなくて良かったの?」
「二十五にもなって、親とべったりお正月を過ごさないよ」
「でも、妹さんが寂しがるんじゃない?」
「お年玉片手に、友達とバーゲンに出かけてる。今の時期、家の中で一番お金持ちなのが、中学生の妹だから」
 大学を卒業して、公立高校の採用試験に合格した祥子は、就職と同時に地元を離れた。赴任した学校は、県内とはいえ距離があり、頻繁に帰って来られない。日頃忙しさにかまけて、溜めてしまった家事を終えて帰省したのは、大晦日の前日だった。
「今年はバスケ部の顧問だったっけ?」
「うん、バスケの経験なんてなかったけど、他にやる人がいなくてね。おかげで土、日がつぶれてこっちに帰って来られないし、ハルともほとんど会えなかったし、もうコリゴリ」
「仕事は仕方ないよ」
「そうだけど……」
 晴彦はたった一歳ではあるが、祥子より年下だ。それが物わかり良く「仕事だから」などと言われると、自分だけが成長していないようで面白くなかった。
 祥子は向かいに座る晴彦に見られないよう、唇を尖らせる。すると晴彦は「でも、久しぶりに会えて良かった」と、まるで祥子の不機嫌を察知したかのように言った。
 二人が知り合ったのは高校三年生の時。ただし、同じクラスではあったが、親しくなったのは年度当初ではなく、夏真っ盛りの頃だった。大学では学部も学科も一緒で、多くの時間を共に過ごした。社会人になり、顔を合わせる機会は減ったが、これからもその関係は変わらないだろう。もっとも出会った当初は、ここまで長く付き合いが続くとは、思っていなかった。つくづく縁とは不思議なものだと思う。
「最近、学校の方はどう?」
「きつい。部活もそうだけど、生徒が色々やらかしてくれるから」
「へー、そんなセリフを、色々やらかした和久井さんから聞くとはね」
 晴彦が目を見開き、驚いている。もちろんワザとだ。テーブルの下で軽く蹴りを入れた。
「あのね。私だって、頑張って働いているんだよ」
「うん、それは想像できる。そのために先生になったんだろうし」
「えっ?」
 祥子がさらなる質問を続ける前に、晴彦が首を伸ばし、厨房の方を見ながら呟く。
「それにしても、今日は混んでいるから、料理がなかなか来なそう」
 その言葉が合図になったのか、祥子の腹がぐぅぅ、と空腹を訴えた。恥ずかしいと思ったが、その程度のことは何度もあるため、気にしない。
「今日はしょうがないよ。待つしかない」
「珍しい。普段の和久井さんなら、早くーって言いそうなのに。どうかした?」
「別に。ただ……お正月くらいのんびりしても、良いかなって思っただけ」
仕事始めは明後日からだ。だから、たまにはこんな日があっても良いだろう。
あの時……、晴彦と初めてこの店に来た日のことを、思い出す時間があっても。

 晴彦は前期日程で希望していた大学の合格通知を手にしたが、祥子は涙をのんだ。担任からは「また頑張れ」と励まされたものの、後期日程で再び同じ大学の同じ学部を志望する祥子の勝算は、周囲からないに等しいと見られていた。
 それでも祥子は、その予想を覆そうと晴彦にも協力してもらい、必死に勉強した。
 しかし努力の甲斐なく、後期日程でも、祥子の受験番号は掲示されていなかった。
結果を確認後も、祥子は大学構内のベンチから立ち上がれず、そこかしこで上がる、歓喜の声を聞き続けていた。三月ではあるが、少し季節が戻ったこの日の気温は低く、発表に訪れる人たちは、厚手のコートに身を包んでいる。そんな中でも祥子は寒さを感じず、ただぼんやりと座っていた。
「残念だったね」
 茫然とベンチに座るのは祥子だけではない。一緒に発表を見に来た晴彦も、まるで自分まで落ちたのかと誤解されそうなくらい、泣きそうな顔をしていた。
「うん。こうなるとは思っていたんだけど、やっぱりショック。……それより、関根はここまで付き合うことなかったのに。結果はメールするつもりだったし」
「僕は暇だから。バイトもしていないし、引っ越しもないし」
「そうだけど……」
 晴彦がコンビニエンスストアで配られている無料のアルバイト情報誌を持っていたのを、祥子は見たことがある。だが実際は、祥子の勉強を見てくれていた。
「……ありがとう」
 合格が決まっている晴彦は、本来ならバイトや遊びにふけっていても不思議ではない。寝坊だって夜更かしだってできる。だがそうしなかった。自分の時間を祥子に使ってくれた。いや、晴彦自身の受験が終わる前から、準備不足の祥子を心配して、何かと力を貸してくれた。
 だからずっと、お礼を言おうと思っていた。けれど、ありがとう以外の感謝の言葉は、口から出てこなかった。
「……関根は先に帰って良いよ。ここにいると寒いし」
「和久井さんはどうするの?」
「もうしばらくここにいる」
「だったら、僕も一緒にいる」
「いいよ。風邪ひくと悪いから」
「それは和久井さんも一緒でしょ。僕はかなり着込んできたから大丈夫」
「でも……」
「一人になりたいなら、先に帰るけど」
 祥子がもう一度、帰ってと言えば、晴彦は引き下がるだろう。だが、祥子は一人になりたいわけではない。ただこんな意味のない時間を、こんな寒い場所で晴彦に付き合わせるのは忍びなかった。
「ここ、寒いよ」
「じゃあ、暖かいところへ行こう」
 返事を待たずに、晴彦は立ち上がって祥子の手を取った。いつになく強引な行動に戸惑っていると、タイミングよくやって来たバスに乗り込む。そのまま、並んで座れる後ろの方の席に腰を下ろした。
 車内で晴彦は無言だった。することもなく、祥子は同じくらいの年齢の人の顔を見る。表情で春からの進路が予想できた。
つらいな、と思う。今、他人の喜びに触れるのは切なすぎる。
しかしそんな時に限って、あちらこちらで道路工事が行われており、いつもよりバスに乗っている時間が長かった。それでも四十分くらいで、見慣れた景色にたどり着いた。
 ようやくバスから降りられることにホッとした祥子が、降車ボタンに手をかけると、それまでずっと黙っていた晴彦が「時間ある?」と聞いてきた。
「どうして?」
「お昼食べに行きたいから。ちょうど良い時間だし」
「私、あんまりお金持って来てないよ」
「今日はいいよ。……お年玉がまだ残っているから」
 だから奢る、と晴彦が小声で付け加えた。
それを聞いて慌てた祥子は、バスの乗客を気にしながら、早口でまくしたてた。
「奢られる理由ない。お祝いでもないし、関根が合格した時も、私何もしていないし、迷惑かけまくったのはこっちだし」
 不合格を慰めてくれるつもりなのだろうか。だが同じ場所を受験して、正反対の結果。奢られるのはみじめだった。
 しかし晴彦は、理由ならある、と言った。
「行きたいお店があるんだ。合格したら、二人で行こうと思っていた場所」
 会話の間に、祥子が降りるはずのバス停を通り過ぎる。声を上げる気力もなく、遠ざかる停留所を窓から見ていた。
「お祝いなら、私じゃなくて、別の人を誘ったら?」
「そう……言われると思った」
「ゴメン。でも何で、私を誘おうと思ったの?」
「ずっと受験勉強で行く機会がなかったけど、前に雑誌でアスパラ料理のフェアをしているって見たから」


不合格のショックから冷めやらない祥子は、まだ食事の気分ではなかったが、アスパラという言葉に惹かれ、誘いに乗った。もちろん晴彦もそれを見越して声をかけたのだろう。
連れて来られた店は、大通りから少しそれた洋食店。お昼時とあって、着いた時はスーツ姿の男女で賑わっていたが、昼休みの時間帯が過ぎると、一気に客が減少した。今、店内にいるのは、祥子たちの他は三組の女性グループだけだ。
しかし期待を抱いてメニューを開いたものの、愕然とした。どこにもアスパラ料理がなかったからだ。
慌てて店員に訊ねると、申し訳なさそうに、アスパラ料理フェアは、毎年五月中旬から六月中旬に行っていると説明された。
「アスパラのシーズンは、今じゃなかったよね……」
よりによって、一年間育てたアスパラガスのシーズンを忘れていたとは。
冬になってからは作業の必要がなくなり、最近は思い出した時に見に行く程度だったとはいえ、自分が情けない。気分が後ろ向きなだけに、些細なことでも落ち込んだ。
「ダメだ……田路のことをバカにできない」
「違う。僕が確認しなかったから。あの雑誌、かなり前のものだったって……」
「ううん、関根のせいじゃないよ。アスパラって聞いた時に、私が気づくべきだったんだよ」
「でも誘ったのは僕だよ」
 互いに自分の方が悪いと言い合いをしながら、今さら店から出られない状況に、祥子は焦っていた。
「私たち、場違いじゃない?」
 店の照明は落ち着いた色合いで、イスやテーブルなど重厚感がある。居心地は良いが、料理の値段はファストフード店の倍以上で、春休みにもかかわらず、高校生の姿はなかった。
 そうだね、と答える晴彦も、周囲を見回しながらうなずく。
「ごめん、僕がもっと考えてから、来れば良かったんだけど」
 うなだれる晴彦を見ていると、本当は自分の方が落ち込んでいるんだけど、と思いながら慰めた。
「別に良いよ。ここ、来てみたかったから。確か、オムライスが有名なんだよ。ホラ」
 行儀が悪いと知りつつ、祥子は近くのテーブルをそっと指差す。客の前には、メニューの写真と同じ、オムライスがあった。
「ただ、さっきも言ったけど、お金が……あ、奢ってって言うんじゃなくて、貸してもらえると助かるなって」
「本当に今日は良いよ。僕が無理に連れてきたんだし、さっきも言ったとおり、お年玉が残っているから」
「んー……」
 ジュースやアイスじゃない。高校生が奢ってもらうには高い金額だ。それでも、晴彦の立場を考えると、素直に奢られた方が良いのかもしれないと思った。
「ありがとう。でも、次からは割り勘だよ」
「しばらく学生だし、そうなるだろうね」
 私は浪人だけどね、と思った言葉は飲みこんだ。
「よーし! じゃあ、たくさん食べようかなー。ランチコースにしようかなー」
 祥子が大げさに張り切ると、晴彦は真剣に困った顔をした。
「そこまでは……」
 もちろん冗談だ。祥子はメニューを晴彦の方に向けて、オムライスを指差した。
「これ、いい?」
「うん、僕もそうしようかな」
オーダーを済ませ、料理が出て来るまでの間、晴彦が雑誌で見たアスパラガスの料理について話す。カレーやコロッケ、ジェラートまであるとのことだった。
「アスパラのジェラート? それは食べてみた……いような、みたくないような」
「お店で出しているんだから、美味しいんだろうけど、ちょっと不思議だよね」
 怖いもの見たさ、というものだろうか。晴彦も興味はあるが、食べるのは微妙といった様子だ。
「そもそも関根は、アスパラに興味があるわけ?」
「興味というか、和久井さんが学校で栽培していたから、何となく気になったというか。学校の花壇で野菜の栽培って、普通ないでしょ。花ならともかく」
「確かに、チョイスとしては変わっているよね。もともと、先生が卒業生から引き継いだって話だから、私も詳しくは知らないけど」
 それでも祥子にとって、アスパラガスを栽培した花壇は特別な場所だった。卒業によって、そこを離れるのは寂しい。
「もう、戻れないんだよね……」
「家から遠いわけじゃないし、たまに遊びに行くくらいはできるんじゃない?」
「浪人の分際で学校に出入りしていたら、先生たちに何を言われるか。そうでなくても、私の場合一年多く学校に通ったし」
「田路先生は喜ぶと思うけど」
「う……ん。そうかもね」
 だたし、元担任の場合は雑用係が来たという理由だろう。そもそもあの教師は、アスパラガスの栽培には積極的でなく、惰性で行っていた。花壇のそばに置いたベンチでのんびりすることには、力を注いでいたように見えたけれど。
「あー、次の一年は、予備校と家だけかー」
 前向きにはなれないが、後ろ向きでもいられない。祥子は不合格という事実を、徐々に受け入れ始めていた。
「最初から難しいって言われてたし、この結果は当然だよね」
「でも、もう少しだったと思うよ。そういえば、どうして急に進路変更したの? 最初は別の大学で、学科も違ったと思うけど」
「そんなこと気になる?」
「ちょっとね」
 内緒にしていたわけではないが、進路を変えた頃はまだ、晴彦とは今ほど親しくなかったため、話していなかったのだろう。
祥子は担任に進路変更を告げた、数か月前を振り返る。それは実際の時間以上に、遠い日のことのように思えた。
「きっかけは単純。やりたいことが見つかったから」
「やりたいこと?」
「うん、見つけるまで遠回りしたし、ここでまた一年遅れるから、さらに時間がかかるけど、諦めたくないことを」
説明が漠然としているせいか、晴彦が額に手をあてて、小さく唸る。
 その様子を見ながら、祥子は高校時代の思い出の場所を頭の中に思い浮かべた。まだ外は肌寒く、緑あふれる季節には時間が必要だが、あの光景は忘れられない。
「ゴメン。大学落ちたし、この先どうなるかわからないから、今は言えない。あっ、もちろん関根に話したくないってことじゃないよ。けど叶えられなかったら、恥ずかしいから……」
 いつか、晴彦に言える日が来るだろうか。あやふやな未来は、祥子を不安にさせる。だがそれは、なぜか晴彦も同じらしい。
第一志望に合格した晴彦は、本来なら希望に満ちているはずなのに、頭を上げて見せた表情は、決して晴ればれとしたものではなかった。
「そのうち、教えてくれる?」
「うん。いつかね……」
 祥子がそう言うと、晴彦は嬉しそうに目を細めた。

 それから数日後。祥子のもとへ一本の電話がきた。
受験した大学で欠員が生じたため、追加合格になったという連絡だった。

「お待たせいたしました」
 運ばれてきたオムライスは、六年前と変わらず、鮮やかな卵の黄色と、茶色のソースが皿の上で湯気を立てていた。
「あー、美味しそう」
 いただきますと、手を合わせてからスプーンを入れる。やはり味も変わらず、祥子の顔は自然とほころんだ。
「ところで今さらだけど、進路変更したのって、やっぱり担任の影響なわけ?」
「どうしたの突然?」
「何となく、あの日のことを思い出したから」
「ハルも?」
 返事の代わりか、晴彦は少し照れたように笑った。
 あれから何度となく、この店を訪れている。だが二人の間で、その話をしたことはなかった。晴彦は聞かなかったし、祥子もあえて話そうとは思わなかった。高校時代を振り返るのは、照れ臭かったからだ。
 祥子はスプーンを置いて、ゆっくりと頭を下げた。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 向かいに座る晴彦が目を丸くした。
「突然何? 来る前にお酒、飲んできた? いくらお正月だからって、飲み過ぎない方が良いよ」
「ハルに会うってのに、飲んで来るわけないでしょ! そういえば、まだ年始の挨拶をしていなかったし、今年はちょっと真面目に挨拶しとこうかと思っただけ」
「あけましておめでとうございます。――で、どうして今年は真面目に挨拶?」
「また会う機会も増えるかな、と思ったから」
「ん? ああ……そういうこと。そっか。今年もよろしくお願い致します」
 晴彦も、祥子と同じように頭を下げた。
「もう、決定したと思って良い?」
「ううん、それはまだ。異動は間違いないんだけど」
「そっか……。近くに来られると良いな」
「うん、アパートを決める関係もあるから、できるだけ早く知りたいけど、正式な発表は三月になるかな」
「アパート? こっちに戻ってこられても実家には帰らないの?」
「多分ね……。家具や家電もまだ新しいし」
 両親と妹は戻って来いと言うだろう。学生時代、祥子が使っていた部屋はそのまま残っている。帰れない理由はない。ただ、たった二年間とはいえ、一人暮らしで感じた気楽さを、手放す気にはなれなかった。そして、家族に対してわずかにある遠慮の理由を、高校、大学と一緒だった晴彦は気づいていただろう。けれど、そこには触れずにいてくれた。
「希望は地域だけ? 行きたい学校とかの希望は出せる?」
「そこまでは無理。それにもし希望が出せても、簡単には通らないだろうし」
「そっか……。まぁ、そうだよね」
 ほぼ食べ終わった晴彦は、スプーンを皿の上に置いて、コップを手に取る。だが、なかなか口につけず、ぼんやりとグラスを眺めていた。
「――ハル?」
 晴彦はハッとしたようにコップから視線を外した。
「どうしたの?」
「別に」
「別にって、何か考えていたでしょ? 私が帰って来ると困るとか?」
「まさか!」
 大げさとも思えるほど驚いた晴彦は、ぶんぶんと首を横に振った。もちろん祥子もそんなことは思っていない。だが、晴彦の真意が知りたかった。
「じゃあ、どうしたのよ」
「あー……」
 何となく、口に出したら消えそうで怖いんだけど、と前置きしながら、晴彦は観念したように言った。
「和久井さんのやりたいことって、あの花壇に帰ることだよね?」
「えっ……?」
「またあの場所に戻って来たいんでしょ」
 大学の四年間に気づいたのか、それとも本当はあの日、気づいていたのか。
 祥子はあの時と、視線の位置が変わった晴彦に問う。
「いつから知ってた?」
「さあ、いつからかな」
 小首を傾げる晴彦がとぼけていることくらい、祥子は知っている。そしてこの表情をした時は、どれだけ詰め寄っても口を割らないことも。
 だから祥子は追及を諦めた。言い合いをするくらいなら、二人でいる時間を楽しみたい。
「ま、いいか」
 祥子にとって、少しばかり量の多いオムライスに、再びスプーンを入れる。
 できれば春からまた、こうした機会が増えますようにと願いながら。
(了)

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