きじかくしの庭 「好き」の理由


『あの』松下香織に恋人ができた、という噂は電光石火のごとく法学部……いや、キャンパス全体に広まった。だがその話は、広がりの速度こそ早かったものの、いつまでたっても噂の域を越えず、「まさか」「嘘だろ」「ありえない」という流れになり、最終的になぜか「間違い」で処理されていた。なぜなら、才色兼備の名をほしいままにしている彼女の相手が、良く言えばでしゃばらない、悪く言えば消極的、つまり目立たない学生だったからだ。
 でも飯塚幸成は、それが噂ではないことを知っていた。その目立たないと称される田路宏昌本人から聞いたから。だから人から訊ねられるたびに、真実を明かしている。それでも噂は噂のままで、いまだに真実として人々に認識されていない。
「宏昌さー、首からぶら下げておけよ。俺は松下香織の恋人ですって」
 空き時間を利用して、少し早い昼食を学生食堂でとっているため、近くに人はいない。比較的静かな食堂は、のんびりとしている。
「バカか」
「いや、俺はかなりマジだ。というかもう疲れた」
 なぜか交際の確認を当人達には確認せず、幸成に聞いてくる人の方が多い。その都度真面目に対応していたが、日に何度もあるため、さすがに嫌気がさしていた。
「別に適当に答えてくれて構わないよ。俺と香織が付き合っているなんて、誰が聞いても信じられないのは理解しているから。……俺自身がそうだし」
 自虐的な友人の発言を聞くと、幸成の中にあった反論の言葉が消える。普通なら、付き合い始めの時など浮かれまくっていても不思議じゃないのに、そんな様子はどこにもない。
「成績は良と可だけ。法学部在籍しているとはいえ、俺の能力じゃあ司法試験には合格しないだろうし、スポーツができるわけでも車を持っているわけでもなく、生まれてこの方、女子に告白されたのは幼稚園時代までさかのぼってもないんだ。その俺が、どうしてって思わないか?」
「……宏昌が、自分を客観視できる人間だということは、よくわかった」
 もちろん幸成は、同姓として田路の良さを知っている。けれどそれと異性の視点は尺度が違うことも知っている。一般的に、騒がれるタイプでないことは確かだ。
「そうは言うけど、声をかけてきたのは松下からだろ。それにもう、デートくらいしたんだろうし」
 少しの間が、田路の逡巡を表していた。
「……あれをデートと呼ぶのか、疑問だけどな」
 田路の話によると、先週の水曜日に学食で一緒にランチを食べたという。他には? と幸成が話の続きを期待していると――、そこで終わった。
「それ以外一緒にいたことはないのか?」
「研究室では一緒にいる」
「同じゼミなら当然だろ!」
 もともと、それがきっかけで付き合ったのだから、今更訊ねる気もない。しかも研究室となると、他の学生もいるために二人きりということはほとんどないはずだ。
「電話やメールは?」
「電話は全然ないし、メールもこの二週間で一度だけだ。どうせかけても、あっちの携帯はほとんど電池切れだよ」
 どうやら田路も、最初の頃は努力したようだが、そのうちに面倒になったらしい。淡泊な二人が付き合うと、喧嘩も少なそうだが接点も少ない。確かに二人が付き合っているとは、周囲も理解しがたいだろう。
「……それでいいのか?」
「良いも悪いも、それが彼女だから」
 この場合の「彼女」は、自分の恋人としてではなく、第三者目線の少し引いた感じだ。しかしその発言は、彼女を理解しているからゆえの台詞と解釈するべきだろうか。幸成は判断に悩んだ。
「宏昌はもっと会いたいとか、一緒にいたいとか、思わないわけ?」
「全く思わないわけじゃないけど、学校に来れば会えるし、松下が忙しそうなのは、見ていればわかるから。それに会いたいなら、向こうから連絡してくるだろ」
「まぁ、そうかもしれないけど……。松下って、そんなに忙しいのか?」
「えーっと……」
 田路は記憶を探るように少しだけ遠い目をする。やがて指を一本ずつ折りながら、説明を始めた。
「月・水・金・土曜日は塾講師や家庭教師のバイトで、火・木は語学系のサークルと教授の手伝い。日曜日は単発でモデルのバイトして、その他に毎朝ジョギングと――」
「もういい」
 さすがに聴いているだけで疲れそうだ。しかも学部一の成績を誇る彼女は、日々の勉強も怠らないのだろう。寝る暇があるのかと思うくらいのスケジュールだ。
「でも、昼メシくらい一緒に食べられるだろ」
「俺は学食利用が多いし、松下は弁当持参が多くて友達と食べるからなー。速攻食べて勉強していることもよくあるし、邪魔しちゃ悪いだろ」
「それにしても……」
「それに俺も、最近はちょっと忙しい」
「そういや、宏昌も塾の仕事始めたんだっけ。いったいどういう風の吹き回しだよ」
「別に。普通のバイトより金が良いから」
「でも、教えるのが苦手だって、今まで避けていただろ」
 大学院に進学するならともかく、三年生の秋になってから塾などのアルバイトを始める学生は少ない。
「まぁ、多少の経験にもなるかなぁ、と」
「どういう意味だ?」
「まぁ、ちょっと」
 詳しく説明する気がないのがわかれば、幸成も追及はしなかった。
「それで結局、お互いバイトとか忙しくしているのはわかったけど……、お前たちは本当に付き合っているのか?」
 結局、一番親しいはずの幸成も、他の人と同じ質問を口にしていた。

 幸成の友人である田路宏昌が、松下香織と付き合うことになったのは二週間前。ちょうどそのころ行われた学園祭で、一緒に行動し、距離が近くなったゆえの結果だった。誰の目から見ても美人と称される香織は、入学以来数多くの男子学生に告白されているが、特定の相手を隣に連れていることはなかった。だから三年生も過ぎると、そんな彼女の周りには様々な噂が流れていた。曰く「超お金持ちの年上と付き合っている」とか「外国に恋人がいる」とか「実はすでに結婚している」など。だがどれも未確認情報で、噂の域は出なかった。
 そんな中、学園祭の翌日、幸成は田路から「よくわからないけど、松下香織と付き合うことになった」と打ち明けられた。当事者のくせに「よくわからない」とは何事かと思ったが、話を聞いた幸成も「よくわからない」としか言えない。ただ、告白は香織の方からであり、はっきりと「付き合ってほしい」と言われたことは確かだ。それについては田路が何度も確認したというから、疑ってはいない。が……。
「よくわからん」
 二週間たっても、その結論は変わっていなかった。



「あれ?」
 幸成が思わず声を上げたのは、学生食堂で噂の二人が窓際の席を陣取っていたからだった。向かい合わせに座る二人は何やら話しているが、他と違う空気や匂いが、まるで感じられず、恋人らしい甘い雰囲気はなかった。
 それでも、友人の邪魔をしてはならないと幸成が別の席を探していると、香織の方から気が付き、手を振って声をかけてきた。
「飯塚君、ここの席があいているわよ」
 幸成に対して背を向けていた田路も振り返る。今更逃げられない幸成は、諦めて二人に近づいた。
「飯塚君が一人って珍しいわね」
 幸成は、ずずずぅーっと音を立てて、うどんを食べている田路の隣に座った。
「そう? 一人でいることもあるよ」
「でも、いつも誰かと一緒にいるイメージよ? 友達多いでしょ」
「少なくはないかもしれないけど……。それより二人は、これからどこかへ行くの?」
 幸成が香織と田路を交互に見ると、二人は一瞬顔を見合わせ、どうして? と声をそろえた。
「いや、一緒にいるから……」
「今日は松下が弁当を持ってこなかったから」
「昨日遅くて、寝坊しちゃったの」
 だから学食を利用している、ということなのだろう。
 日替わりA定食を食べ始めた幸成は、チラチラと二人の様子を探る。さっきの時間の授業内容を香織が話し、田路がそれに相槌を打つ形だ。飛び交う法律用語は国会答弁のように固く、とても恋人たちの昼食風景には思えない。
 幸成は思わず口を挟んだ。
「もう少し、違う話題とかないわけ?」
「なぜ?」
 意外にも疑問を呈したのは、香織でなく田路だった。
「食事時の話題としては、いまいち食が進まないというか……」
「そうか? 別に俺は構わないけど。教授の話を聞いているよりわかりやすいし」
「それはそうかもしれないけど……」
 本当にそれでいいのか? と幸成は口まで出かかった言葉を、みそ汁とともに飲み込んだ。本人が良いなら、他人が口出しをすることではない。
 それから約二十分間。幸成が食べ終わるまで、BGMはずっと法律用語が流れていた。そして会話が途切れた時、ようやく普通の話題になるかと思いきや、香織は教授に呼ばれているからと腰を浮かせる。昼食を終えた田路は、眠そうな目で携帯電話をいじりながら「んー」と軽く手を上げてそれに答えた。結婚二十年の夫婦かと思うくらい淡々としていた。
 香織の姿が学生食堂から消えると、幸成は田路に顔を近づけた。
「宏昌はあれで良いわけ?」
「何が? もしかして松下のこと? そんなの、幸成だって今更だろ」
「まぁ、彼女の変人伝説の数々は耳にしているけど」
 同じ学部なだけに、幸成も当然知っている。学力レベルや美貌が突出していることで話題になりやすいが、それ以外にも一風変わった人だという認識は誰しも持っている。長期休みにふらりと海外へ出かけたり、突然フルマラソンを走ると言いだしたり。
「そういや、学際の準備で、イチゴジャム入り焼きそばを作ったのもあったよな」
 幸成がもう一つ香織の変人伝説を加えると、田路が苦笑する。
 当然のことながら周囲には不評だったらしいが、田路に言わせると「全然普通に食える」とのことだった。
「そもそも俺の何が良くて、松下が付き合いたいって思ったのかわからないんだよ」
「……何でそれでOKしたわけ? 学際で一緒にいる時間が長かったのは知っているけど」
「さあ……」
「その発言が、他人事に聞こえるのは、俺の気のせいか?」
「いや、俺にもよくわからないのは本当だから。確かに学際の時に、旅の話を聞いたり、就職の話をしたのは事実だけど、その程度だよ。だから、翌日に呼び出されて、付き合ってほしいと言われときは、良くわからないけど、うん、と答えていたって感じかな」
「何だよそれ……」
 告白されたから、という理由で付き合う人間がいることは幸成も知っている。もちろんそれを責めるつもりはない。だが、二人の性格を知っているだけに、何となく違和感があった。
「宏昌は、彼女のこと好きなわけ?」
 単刀直入すぎただろうか。ハトが豆鉄砲を食った顔、というのを、幸成はこの時初めて見た気がした。
 田路は「多分」と言った。
「多分、ねぇ」
 言葉だけ聞いていれば気がなさそうでも、顔を見れば感情は伝わってくる。幸成の頬が思わずにやけた。変人と名高い美人の考えはわからなくても、友人の考えはわかったからだ。
 その顔を見れば、何とかしたい、と思わずにはいられなかった。



 何とかしたいと思っても、一人は何とかできる相手ではないし、田路も執着するタイプでないだけに、幸成もどこから手をつければいいのかわからない。
 そんな中、幸成がキャンパス内を歩いていると、顔見知りの女子が駆け寄ってきた。ただ学部は違う。確か文学部だったはずだ。
「ね、松下さんが同じ学部の人と付き合い始めたって本当?」
 松下香織のことは名指しだが、田路の方は〝同じ学部の人〟という伝わり方が、二人の知名度を表している。幸成は何ともいえない気分になりながら「本当だよ」と肯定した。
「えー、本当なんだー。信じられなーい。その相手って、飯塚君とよく一緒にいるって聞いたけど、本当なの?」
「うん」
「そっかぁ。だったら私も会ったことがあるよね? でも私、その人の顔覚えていないなー」
 この反応も、幸成はすでに何度も経験していた。
 田路の印象が薄いというよりは、香織の印象が強すぎるのだろうけど、やはり二人が並んでいる場面を想像するのが難しいらしい。
「でもそっかぁ。飯塚君が認めるってことは、狂言じゃないのか」
「……何だよソレ。ついに狂言扱いにまでなっているわけ?」
 信じられなーい、くらいならまだしも、友人として田路が嘘つき呼ばわりされるのは面白くない。幸成の眼が鋭くなったからか、女子の声のトーンが一段低くなった。
 失言と気付いたらしく、違う違う、と慌てた。
「松下さんに振られた男子たちが言い始めたみたいなの。今までみんな玉砕してきたのに、彼女から告白なんてこと聞いたら、噂だとしても冷静でいられないんだと思うよ」
 それがすべて噂でなく、真実だと声を大にしているのに伝わらないのがもどかしい。
 そしてこんな質問を繰り返されるのも、無実の友人の悪評を聞くのも、幸成はもう勘弁して欲しかった。そのためには、二人が一緒にいる場面を周囲に見せつけるしかない、と思った。



 研究室は同じため、田路と香織が一緒にいる時間もそれなりにある。とはいえ、二十年に一度の逸材と言われている優秀な学生の勉学を邪魔するのは、教授の視線が怖くて幸成にはできない。なにより、外部の目が少ない場所でいちゃつかれても効果は薄い。
 となると、それ以外の時間で二人をできるだけくっつけておく必要がある。
 幸成はてっとり早く、二人を学生食堂に呼んだ。
「……この配置はなんだ?」
 眉間に皺を寄せた田路は、向かいに座る幸成を睨んだ。
「細かいことは気にするな。テーブルを挟むよりも、隣同士の方が話しやすいかと思っただけだよ」
 その言葉で、幸成が何を考えているか田路は気付いたらしい。睨まれる。だが香織はいつもと変わらずマイペースで、黙々と食べていた。
 せっかく二人を一緒にさせても、これでは意味がない。しかも放っておくと、前回同様、法律の話か食事を平らげるだけになってしまう可能性が大きい。
 幸成は自分から話を振った。
「え……と、松下のそれ、美味しそうだよな。俺も今からそれにしようかな。本日の特別セット?」
「ただの日替わりランチだけど……学食の入り口に、サンプルが展示してあったでしょ?」
 香織は首をかしげていた。
「それに飯塚君。もう頼んだものがあるっていうのに、そんなに食べられるの?」
「あ、う……ん」
 当たり前の指摘に、幸成は口ごもった。田路も幸成の勝手な行動に腹を立ててくれるようで、助け舟を出してくれない。殺伐とした雰囲気は、とてもにこやかに昼食を食べられないし、何より当初の目的から激しく逸脱している。
「見ていたら食べたくなったから」
 苦し紛れの言い訳は、上滑りしていた。
「そんなに? だったら、少し箸をつけているけど交換する? 私はどっちでも構わないから」
「あ、いや、それは悪いよ」
「別に良いわよ。飯塚君の今食べているものにしようか、悩んだくらいだから」
「でも、悪いよ……」
「遠慮なんてしなくていいって」
 香織は幸成の辞退を遠慮と受け取ったらしい。顔が引きつるのを感じながら、頭の中をフル回転させて言葉を探した。
「いやいや、俺はこれでいいから」
 彼氏の前で、すでに箸をつけた料理の交換を、他の男に言うか?
 田路の表情は一見、いつもと変わらないが、幸成と香織の会話に一切かかわらず、無言で食べ続ける姿が、逆に不自然に感じた。もちろん探られて困る腹はない。幸成には他の学部に恋人がいるし、香織に特別な感情を抱いていない。それでも、田路の立場を考えれば面白くないだろうと思っていることくらい、想像できる。
 これ以上会話を続けると墓穴を掘りそうだと思えば、幸成は余計なことを言わないようにした。
 結局その日の昼食は、黙々と食べるだけで終わった。


 幸成の行動は空振りに終わり、相変わらず二人の仲は噂のままだった。
 もちろんその間も、手をこまねいていたわけではない。仲間内の飲み会に二人を誘い、席を隣同士にしてみたり、イマドキ中学生だってしなそうなダブルデートを、自分の彼女に頼んで決行したりもした。
 しかし状況は何も変わっていない。さすがに幸成も諦め始めていた。
「もういいよ。幸成も適当に答えるか、ノーコメントにしておいてくれ。だいたいどうして、俺と松下のことで幸成が必死になるんだよ」
「聞かれるのが面倒ってのもあるけど……、それ以上に面白くないから」
「……どういう意味だ? まさか幸成……」
 田路の視線が鋭くなる。そこに誤解を含んでいることは、すぐにわかった。
「違う、絶対違うから! 俺は自分の彼女一筋だ」
 改めて口にするとかなり恥ずかしいが、幸成の気持ちは伝わったらしい。そもそもあらぬ感情を抱いていたら、こんなことをするわけがない。
 幸成は素直な気持ちを吐露した。
「そりゃ、松下は綺麗だと思うよ。でもそれと好みは違うだろ。まぁ、多くの男どもは彼女に交際を申し込んでいたけどさ」
「ああ。その彼女が俺に告白してきたから、いまだに信じられないんだけどな」
「それ、そんなに気になるなら本人に聞けよ」
 確かに、幸成も気になる。もちろん、そこまで訊ねるつもりはないが、少なくとも当事者である田路は知っていて良いと思う。
「……聞いてはみた」
「へ? 松下は何て言っていたんだ?」
「わからない」
「はっ?」
「いや、何か言っていたけど、結局何が言いたいのかよくわからなかったんだ」
 田路の話はこうだ。どうして自分に告白したのか? と。
 直球といえば直球だが、相手が悪かったらしい。同じくもっと直球の彼女は「付き合いたかったから」と彼氏の気持ちをまるで考えない答えだったという。
「それは俺だって知っているよ。最初に〝付き合って〟って言われたんだから」
「ごもっとも……。じゃあ、俺のどこが良くて付き合おうと思った? って聞けば良いだけじゃないか?」
「……そんなこと聞けるかよ」
「ああ……まぁ」
 幸成も同じことを自分に置き換えてみると、恥ずかしい気がする。
「じゃあ逆に、田路は彼女のどこが良くて付き合うことにしたんだ?」
「知らん」
 田路はすがすがしいほど速答した。
「知らんって……。顔が好みとか、スタイルに惚れたとか、そういうのもないのか?」
「まぁ、幸成が言った通り、綺麗だとは前から思っていたけど、それ以外はやっぱり突然過ぎて、何となくとしか……。ただ、話していると他の人とは違う楽しさはあるかな。先が読めないから」
「びっくり箱かよ。普通、彼女にそれを求めるのはレアだぞ」
 とはいえ、そこは個人の好みだ。ただ田路は自分に自信を持てないためか、彼女が勢いで告白してきたと思っている節があるようだ。
 客観的に見て、松下香織という女性がそんなことをしないことは幸成にはわかるが、自覚が薄くても、すでに恋愛感情を抱いている田路には、彼女を冷静に見極めることはできないのだろう。
 だが田路は意外にも、さっぱりとした顔をしていた。
「松下の気持ちはよくわからないけど、俺はそれなりに楽しいから構わないよ」
「周りに認知されなくてもか?」
「そんなものは最初から諦めている」
「じゃあ、一緒に過ごす時間が短くても?」
「それも、お互い時間が合う時に連絡して、会えばいいだけだ」
「田路はそれで良いのか?」
「だから構わないって、言っただろ。幸成、おせっかいすぎ」
「……そうか?」
 不器用ながら、二人が良いならそれでいいのかもしれない。昔から、人の噂も七十五日という。そのうち、幸成に聞いてくる人もいなくなるだろうと思い、諦めることにした。


「申し訳ないけど、私付き合っている人がいるから」
 法学部の学生なら近道だと知っている校舎の隙間を通っているとき、やや冷たい風とともに、迷いのない言葉が流れてきた。
 その声に聞き覚えのある幸成は、行儀が悪いと思いつつ、足音を忍ばせて影から覗き見る。案の定、後ろ姿だけでもわかる、スタイルの良い女性がそこにいた。ただしもう一人。やはり同じ学部で一年先輩の男子学生もいた。学部の中でも女子から人気のある先輩なため、幸成も顔を知っている。
「松下さんが付き合っているって話……噂じゃなくて本当なの?」
 そこにはどこか、田路なんかとアリエナイだろ? と言わんばかりの響きを感じる。だが、あからさまに言葉にしないくらいの常識はあるらしい。
 香織はさぞ不思議そうに返した。
「何で噂だと思うの? ああ、私と彼が釣り合わない? そうよね。私、他の人みたいにいつも一緒にいないし、携帯の電池切れで連絡も滅多につかないし。友達からもどうにかして! って言われているのに、すぐに忘れるし……。それは彼の方がつまらなく思って当然よね」
 自分が変わっているという自覚はあるらしいが、とらえ方が間違っているという自覚はないらしい。
 案の定、告白をした先輩は、ん? と怪訝な表情をした。
「松下さんは、アイツのどこが良くて付き合ったわけ?」
 どうやら、噂を知った時点で田路のことも調べたのだろう。そのうえで行ける、と踏んで告白したと考えると、幸成はムカムカした。
 香織はうつむいて、困ったように額に手を当てる。
 ――もしかして、本当に勢いで告白したのか?
 香織の困惑を見てチャンスだと思ったのか、先輩はここぞとばかりに自己アピールを始める。
「俺、大学院に進学するんだ。司法試験に受かって、絶対弁護士になるよ」
 自信満々で無駄に暑い態度は、見苦しい気もするが本人も必死なのだろう。
「だから?」
「だからって……。松下さんも弁護士を目指しているんでしょ? だったら一緒に勉強すれば、効率も上がるんじゃないかな。将来は一緒に事務所を開いてもいいし」
 先走りすぎだろ、と幸成は思わず声にしてしまいそうになったのをどうにか堪えた。
「でも私、大学院に行くつもりはありませんから」
「じゃあ、弁護士諦めるの? 法科大学院へ行かないと、弁護士になれないよ」
「そんなことありません。大学院へ行かなくても弁護士にはなれます」
「それって……」
 窺うように訊ねる先輩は、一つの可能性に気付いたのだろう。ただその可能性が成功する確率は、一パーセントにも満たないというハイレベルな挑戦だ。
 松下香織は目の前にいる先輩を前に、口を結んだまま口角を引き上げて微笑む。言葉がなくても伝わったようで、先輩は鼻先で少し笑うように息を吐いた。同じ大学の同じ学部にいるからこそ、その挑戦が現実的でないことを知っているのだ。
「本当にできると思っているの? 無理に決まっているでしょ」
「どうして?」
「この学校じゃ、ほとんど前例がない。しかもかかる年数を考えたら、大学院に行く方が近道だと思う」
「先輩に信じてもらえなくてもいいけど、私はできると思っていますから。それに、大学院へ行くよりも前に合格すれば、すべて丸く収まります」
 先輩は香織から距離を取るように一歩足を後ろに引く。香織が本気で言っていると思うと、自分には付き合えない女性だとわかったのだろう。そしてフラれたショックなのか、女性に対する見極めが甘かったからなのかはわからないが、先輩はがっくりと肩を落として立ち去った。
 幸成も見つかる前に引き返そうとしたとき、「飯塚君」と呼ばれる。呼ばれて逃げるわけにもいかず、幸成は香織に近づいた。
「悪趣味」
 どうやら幸成が立ち聞きしていたことを、香織に気づかれていたらしい。
「ゴメン。でも、偶然だよ」
「それくらい知っているわよ。でもああいう場面に遭遇したら、普通は立ち去るんじゃない?」
「他の人ならね。でも俺には知りたいことだったから。……もちろん、悪趣味なのは認めるけど」
 幸成はもう一度、ゴメン、と頭を下げた。
「私があの人になびくと思ったわけ?」
「いや、その不安はなかったけど、友人を放っておけなかったって感じかな」
「それはおせっかい過ぎるわよ」
「二人して同じこと言わなくていいよ」
「えっ?」
「いや、何でもない。それより、松下は旧司法試験に挑戦するのか?」
 大学院卒業後に挑戦する、新しい司法試験より、旧司法試験は合格率が低い。幸成と田路は、挑戦するつもりすらない。自分たちには無理だと知っているからだ。でも香織は違うらしい。
「だって、その方が時間短縮できるでしょ。大学院へ行くとお金もかかるし。もしかして、飯塚君も無理だと思っている?」
 曲がりなりにも幸成も法学部に在籍しているだけに、普通なら無理だと思う。だがそれを無理だと断じることもできなかった。何より、一つだけわかったことがある。
「いや、松下ならできるかもな。っていうか、できると思っているヤツが、松下以外にも、もう一人いるんだろ?」
「ど、どうして?」
 瞬時に頬を赤く染めた香織は、慌てた様子でうつむく。そして、蚊の鳴くような声で「うん」と言った。
 その一言で、幸成は二人が付き合い始めた経緯が見えた気がした。田路は、周囲が理解できないことでも、彼女を受け入れることができるのだと。
 一瞬で気持ちを立て直したのか、顔を上げた香織は冷静さを取り戻していた。少し強い視線を幸成に向けた。
「それより最近、やけに私たちのことを、一緒にいさせようとしているでしょう」
「あ、バレてた?」
「わかるわよ。あからさまなんだもの」
「そっか。ゴメンゴメン。でも、もうしないから安心して」
 そう? と香織はあまり信じていない様子だ。だが本当だ。幸成はもう、無理に田地と香織を一緒にいさせようとは思わない。
 それは必要ないと今知ったからだった。



 相変わらず二人が付き合っていることは噂の域を出ないが、香織が告白を断るたびに「付き合っている人がいますから」と宣言するため、少しずつ信じるものも現れ始めた。最近は、田路も少しは彼氏の自覚が芽生えてきたのか、以前よりも香織と一緒にいる姿を見かける。あくまでも、以前より、ではあるが。
 田路と香織が学生食堂で一緒に昼食をとるのは週に二回くらいになり、そこに幸成が混ざることもたまにあった。
 昼休みに教授に呼ばれたからと、田路と幸成が先に食堂へ行き、三人分の席を確保する。田路は香織を待っているが、幸成は食べ始める。
 チキンカツにかぶりつく幸成の隣で、いきなり田路が言った。
「結局香織は、俺のどこが良かったんだろう?」
「お前、まだそこを悩んでいるわけ? もう一度、本人に聞けよ」
「それは嫌だ」
 面倒なヤツ、と幸成は思った。
 田地も結構強情なところがある。とはいえ、それくらいでないと香織とは付き合えないのかもしれない。
「勝手にしろ」
 告白現場を目撃した幸成は、少しだけ香織の気持ちを理解できたが、それを隣にいる友人に伝えるつもりはない。
 ただ、ずっと悩ましておくのも可哀そうだと思う幸成は、少しだけヒントを与えた。
「少なくとも松下は、好きでもないヤツと付き合うことはしないと思うよ」
 またおせっかいと言われるかもしれないけれど、これくらいは許して欲しい。
 とりあえず、彼女が来る前に自分はいなくなった方がいいと思う幸成は、皿の上に残る料理を、勢いよく食べ始めた。
(了)


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