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1月「雛菊の願い」⑪

 散らばった花弁を見ていた。これからデートで、もらっても困ると言ったら、花を捨てても良いと言った彼。でも実際道に散らばっている花弁を見ていたら、枯れて萎れた時よりも哀しいと感じる自分が居た。

「す、すみません! あの…花、散った花、弁償します。いや、同じ物を買ってきます。この先に花屋があるんですよね? 俺今から行って買ってきます。あ、でも花の名前…それ持って行って聞いてきます。それと同じ花…」

「いいです」

 散った花弁を見つめていたら、頭上からぶつかった男性の声が聞こえた。顔を上げると相手は大学生くらいの人だった。花を弁償すると言われ、同じ物を買ってくると言われたけれど、すぐに断った。花は同じでも代わりになるものも同じ物も一つもないのに、大学生というだけで別の男性なのに同じ物と言われて、思わず最後まで話を聞かずに、強い口調で断ってしまっていた。けれど相手の顔を見て、私は慌てて口を開いた。

「あ、違うんです。ごめんなさい。さっき一輪だけもらって困っていたの。これから人と会う約束があるのに、花屋でこれを一輪だけ手渡されて…だから、そんなに大事なものじゃないんです。散ってしまったのは、花に対して申し訳ないなって思っただけで…だから、あなたがそんなに気に病むことじゃないんです。」

 男性に大丈夫だと、何でもないのだと手を振って、ついでに花屋がこの先にあることも教えてあげて、私は足早にその場を去った。花弁が少しだけ散ってしまった雛菊を手にしたまま、私は駅までの道を戻った。

 駅に戻ると、待ち合わせ場所に社会人の彼氏が居た。私に気づくと少しだけ手を挙げて微笑んでくれる、大人を感じさせた。

「姫奈(ひな)、どうしたのそれ? 散ってるみたいだけど…」

 彼は私が手に握りしめている、花弁が欠けた雛菊を指差した。私はすぐに答えられなかったけど少し考えて、途中でもらったけど人とぶつかって散ってしまったのだとだけ答えた。

「そうなんだ。じゃあ残念だけど捨てるしかないな、それ。捨ててくるから、姫奈にはこれ。今日の姫奈には特に、こっちの方が似合うと思うから、いつものだけどもらって?」

 彼は私にバラの花束をくれた。大人っぽい格好をして、大人の彼の隣に立って、彼がくれた赤いバラの花束を持って…憧れていた理想の光景だった。それなのに、彼が花弁の欠けた花を捨てると言って、私の手にあった雛菊を持って行こうとすれば、堪らず彼を呼び止めていた。

「待って! あの…それ、捨てるの…待って…私…」

 呼び止められた彼が振り返って私を見た。私は呼び止めたものの、続ける言葉が思いつかなくて、それでも必死に言葉を探して彼をこの場に繫ぎ止めようとしていた。

 理想の光景が叶って、素敵な彼氏が居て、他には何も願うことなんてなかったのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこんなに哀しいんだろう。「ありのまま」と言われた雛菊が欠けてしまって、捨てられようとしている姿を見ていたら、まるで自分のように感じられて、それをくれた彼の気持ちまで全部捨ててしまうような気分になった。

「姫奈、どうした? どっか痛い? 何で泣いてる?」

 彼が近寄ってきて私の頬を指で拭う。初めて自分が泣いているのだと気づいたけれど、言葉が出てこなかった。痛い所もなければ、どうして泣いているのかも説明がつけられなくて、私は彼が持っている雛菊の花にそっと手を伸ばした。

「ごめんなさい…ごめ…んなさ…い。捨てちゃだめなの…それ、捨てたらもう二度と…私が…私を…」

 彼は何も言わずに空いている片方の手で、私を抱き締めた。それからすぐに離すと、持っていた雛菊を私の目の前に差し出した。

「あー、もう疲れちゃったな。姫奈はもっと大人びた子だと思ってたのに、やっぱりどこまでも高校生だったな。正直もう疲れちゃったよ。姫奈も背伸びしてそんな格好しなくても、もういいよ。別れよう」

 彼はいつもと変わらない大人の余裕の笑みで、何でもないことのように別れを告げた。

「その花は姫奈が処分して。君にはバラの花束よりずっと、そっちの花の方が似合ってるよ。姫奈と俺じゃ不釣り合いだ。じゃあ、連絡先も消しておいて。どこかで見かけたら声くらいはかけてあげるよ」

 駅に来た時と同じように、彼は少しだけ手を挙げて私に背中を向けた。私は花束を抱えたまま彼の背中に抱きついて、たくさん謝った。

「ごめんなさい、ごめんなさい。たくさん傷つけてごめんなさい。辛いこと言わせてごめんなさい。そんなこと思ってもないこと言わせてごめんなさい。私のこと好きになってくれたのに、ごめんなさい。待っててくれるって言ってくれたのに、ごめんなさい。嘘つかせて…ごめんなさい」

 抱きついた私の両手に彼はそっと自分の手を添えた。それから空を仰ぐようにして上を向いた後、私の手をそっと自分の体から引き剥がした。

「…なんで姫奈はそうやって、俺を甘やかしちゃうんだ。悪い大人のせいにして、それで終わりで良かったのに。ごめん…姫奈が本当は無理して急いで大人になろうとしてるって気づかされたのに、俺には何も出来なかった。君より少し年を取ってるだけで、全然余裕なんてないし、我儘も聞いてやれない大人で…彼の方がずっと、姫奈のこと解ってて嫉妬した。でも本当はいつも姫奈の本音が聞きたかったよ。大人になろうとしてくれる君が好きだと言った俺には、そんなこと言いにくかったんだろうけど…聞かなかった俺も悪いし、それでも本音でいつも話してほしかった。言葉が足りなかったな」

 彼が初めてさらけ出した本音の部分を知れば、なんて私たちはお互いを知らなさ過ぎたんだろうと思った。最初の第一印象とすれ違いと、ただ好きだという気持ちだけでここまで来てしまったけれど、私も彼もお互いのことを聞かなさ過ぎたし、話さな過ぎた。そしてお互いの遠慮がお互いを傷つけあってしまったのだ。

 彼は自分の本音を最後に話し終えると、私が持っていたバラの花束を回収した。

「処分してなんて言ったけど、こんなに人が行き交う場所で渡すだけ渡して回収するなんて、大人として格好つかないって思っただけ。でもやっぱり本当の姫奈には、この花は似合わない。俺が持ってる方がよっぽど絵になるだろ? じゃあ、今までありがとう。さよなら」

 彼は自分の方がバラが似合うと茶化して、私からバラを奪い取ったけれど、その微笑みはいつもよりずっと哀しそうに見えた。そして別れを告げて、今度こそ本当に去って行った。私の手には花弁が欠けた雛菊が残された。

『ごめん…姫奈が本当は無理して急いで大人になろうとしてるって気づかされたのに、俺には何も出来なかった。君より少し年を取ってるだけで、全然余裕なんてないし、我儘も聞いてやれない大人で…彼の方がずっと、姫奈のこと解ってて嫉妬した』

 彼が去った後を見送りながら、言われたことを反芻していた。彼は私のことを気づかされたと言い、彼の方がずっと私を解っていて嫉妬したと言った。「彼」が誰なのかを思いつかない程、私はばかじゃない。けれど本当にそうなんだろうか…とすぐには信じられなかった。

 彼が去った後も同じ場所で立ち尽くしていると突然、私の腕が後ろに引っ張られた。驚いて後ろを振り返れば、どこか焦った顔をした、あの女性が立っていた。女性はよほど全速力で走って来たのか、ゼイゼイと肩を上下にして苦しそうに息をしている。それでも私の腕を握った手は熱くて強くて、振り解けそうになかった。

「あの…」

「一緒に…来て…当摩が大変…なのっ…当摩が…大怪我したの!!」

  大丈夫ですか…と聞くつもりで声をかけようとした私に、彼女は切れ切れの言葉で信じ難い一言を口にした。その衝撃に私の手から、雛菊の花が零れ落ちていった。

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