石神井慕情

私鉄を降りると息は一層白く、寒さでマフラーを口元まで上げ、肩を縮こませた。星は一段と高く、秋はすっかり冬へと変わったらしい。

バス停には向かわず、駅前の大きな通りの横断歩道を渡り、一本奥の道を歩く。ファミマの横を過ぎる頃、スマホが震える。立ち止まり、相手を確認することなくスマホを振って応答する。

「降りましたか?」

耳が甘い。いつだって優しい。多分、わたししか知らない声だ。

「寒いですね」
「そうですね」
「家まで、どのくらいですか」
「15分か、そこらです」
「同じくらいですね」
「それまでお話したいです」
「私も同じですよ」

丁寧な物言いは、周りに人が居るときも、二人きりの時も変わらない。密着している時だけ、違う。その違いにいつだって胸をときめかせた。

切れたくなくて、とりとめのない話を一生懸命に繋げる。
さっきの台詞を繰り返すから、体の中心の熱い感覚が戻ってしまう。
頬が熱い。なのにスマホを握る手は冷たくて、感覚がなくなってきている。

「家に付いてしまいました」

酒屋が見えるところでジャスト15分。
その頃だなと思っていたので、じゃあ、また今度、と言おうとした。
すると、電話の向こうで、何か違う気配がした。

「あ、それではまた、…」

明らかに違う声で切れた電話。無機質な音が繰り返される中で、切れる直前の、聞こえなかったはずの遠い声を、脳内で再生していた。
それは、二人きりの時と同じあの声だった。

帰る家があるあの人は、さっき、声を切り替えた。
そして、「ただいま」と、家で待っている人に、あの声とあの眼で言うのだ。

わかっていたことだけど、冬の夜には凍える現実。
駅から15分の結末を迎えた女は、目の前の自販機でタバコを買い、一本取り出し火をつける。

これからあの部屋に戻るには寒すぎる。
しかし、引っ越すきっかけも終わらせる勇気もない。
タバコは、どんどん灰になってぽとりぽとりと落ちていった。

それから年が明けて、別の沿線上に引っ越した。
あの眼差しも声も、もうわたしに向かうことはない。
乗り換え駅で、乗っていた電車を見送った後みたいに、ぽつんと終わってしまった。

それでもまだ、池袋まで遠回りの、この沿線を使ってしまう。
車内アナウンスがあの駅名を告げる度に、甘い疼きの中で再生される声。
諦めの悪い私には、15分の結末のエンドロールが、まだ流れてこない。


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