小説「パワー」と自戒

 小説「パワー」(ナオミ・オルダーマン著、河出書房新社刊)を読んだ。イギリスで2016年に刊行された本で、日本では2018年に翻訳されているため、ネタバレも何も無い。もう最後の一節を読んだ瞬間の感想から書こうと思う。

 ある日突然、女性の鎖骨あたりに「スケイン」と名付けられた新たな器官が生まれ、指先から電流を流すことが出来るようになった。その能力は女性から女性へと伝染していき、男女の立場は逆転していく。男性は女性から性的暴行を受けたり、女性の同伴無しでは外出できなくなったりしてしまう……という物語。

 本編に入る前にまず、男女の立場が完全に逆転した遠い未来で、男性作家のニールが女性作家のナオミへ手紙を出すところから始まる。ニールが書いた小説が本編の「パワー」なのだと分かる。同時に、原稿を受け取ったナオミの手紙にある「男性の支配する世界はきっといまの世界よりずっと穏やかで、思いやりがあって……」という文章で、本編を読む前からガツンとやられた。こういうことなのだ。

 そして本編が終わった後に再度手紙のやり取りがあり、ナオミの手紙はこの一文で締めくくられている。「ニール、(中略)この本を女性の名前で出すことも検討してはいかがでしょうか」。そして解説を読む前に再度表紙を見ると、そこには「パワー ナオミ・オルダーマン著」の文字が。使い古された言葉だが「衝撃のラスト」というフレーズが脳裏をよぎった。ナオミ・オルダーマンはこの本の著者で、間違いなく彼女が執筆した作品だ。だが本編を読んだ後に表紙を見ると「男性が頑張って書いた小説を自分の手柄として横取りしたのではないか……」と思わせる構成になっているのだ。

 インタビュー記事を漁ったわけではないので意図は不明だが、私はこのオチを見て「自戒せよ、ということかな」と思った。現実にはスケインなる器官は存在せず、女性と男性の間には埋めがたい腕力・筋力差がある。だから性犯罪といえば男性が女性に対して行うものであり、未手術のトランス女性が女子トイレや女子更衣室などの女性スペースに入り込むことはあっても、逆はない。女性たちは常に男性の侵略を恐れ、声を上げ続けている。

 しかし「パワー」ではそれは逆転している。未来の女性はどんな時にも充電やスイッチ不要のスタンガンを所持している状態であり、当然発覚すれば罪には問われるが、その力で以って男性に暴力をふるって無理やり従わせることができるのだ。つまり、現実世界で女性に生まれたから男性の腕力にものを言わせた性犯罪に憤っているが、もし「パワー」のような世界に生まれたとき、お前は男性を虐げないままでいられるか?ということを問いかけているのではないだろうか。

 読了後、よしながふみの「大奥」を思い出した。現実では江戸時代に男性が行ってきた政治が逆転して女性が行うことになった作品で、西郷隆盛が「女を差別するつもりはないが、女の政治は腐っている」と発言した。読者は物語を通して血反吐を吐くような苦しみのなかで生きてきた歴代将軍を知っているし、そもそも現実では男性の行った政治であることを知っているので、性別を理由に幕府を腐す西郷隆盛の滑稽さに憤ったことだろう。「差別するつもりはない」と言いながら思いっきり差別している。

 そして最後に、歴代の女将軍たちの歴史を記した書物は焼かれ、闇に葬られた。「もしかしたら本当に将軍は女で、その歴史は明治の変革期に抹殺されてしまっただけなのでは……」と思わせるラストになっている。(さすがにそれはないが、歴史のifとしては面白い話だ)

 そしてここで記しておくべきは、アリス・A・ボールだ。黒人女性初の科学者で、ハンセン病治療発見者だが、死後、アーサー・L・ディーン(教授、白人男性)が全てを自身の手柄にして数々の賞を受賞した。彼女の存在は長らく歴史から忘れられていた。「女性の功績を奪う男性」の典型的な事例だ。

 さらに、アメリカ独立戦争の英雄にして「アメリカ騎兵の父」と呼ばれるカジミール・プラスキ将軍が実は女性だったということが遺骨の調査研究で発覚したが、長らくこの事実は秘匿されてきた。紹介記事ではその理由を筆者が「アメリカの英雄が女だったなんて認められないのだろう」と推測していたが、言いがかりではなく、おそらくこれが真実だろう。

 現実では男性が女性に性的暴行を加えることはままあるが、逆はめったにない。(日本における性犯罪の男女比は99.6:0.04)しかし、ネット上では男女ともにお互いの性を侮辱して日々SNSで罵り合っている。こうはなりたくない。自分の発言が相手の立場に立った場合何を意味するか、男性に対して加害者になることがほぼないからと「被害者様」のような傲慢な態度になっていないか――常に自戒していきたい。

 「男は女に笑われることを恐れ、女は男に殺されることを恐れる」 ――マーガレット・アトウッド

 最後に。日本人としての感想を述べると、序盤のニュース番組で「日本のどこかの研究所じゃ、電気ウナギの水槽から電気をとってクリスマスツリーをライトアップしてるらしいよ」というコメントがあり、ちょっと笑ってしまった。
(1985年の作品「侍女の物語」には日本人観光客が登場する。当時は衰退したアメリカをぴかぴかの靴を履いた日本人が闊歩する未来予想図があったのだろう。映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」と合わせて読むと、当時のアメリカの空気を感じられる。このままポリコレ・トランスジェンダリズムが悪化すれば、小説の中の出来事では済まなくなるかもしれないが……)

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