「男らしさから降りる」とは?

 改めて自己紹介するが私はAロマAセクの女で、結婚・出産どころか恋人を作る気もない。自分を着飾ることに興味がないため、ノーメイクだ。だから自分のことを女だと思っているが、それは生物学的な分類および社会的な身分としてであって、日常生活で自分の性を意識することはほぼない。精々出先でトイレに行くときくらいだ。

 さて、ネットでは「"男らしさ"や"男性性"から降りる」というフレーズをよく聞く。まとめが作られコメント欄で議論されているが、改めて考えてみる。男らしさとは何だろう? まとめのコメントから抜粋すると「正々堂々、弱者救済、筋を通す」……らしい。いや、それ別に女もやっていることでは?

 正々堂々というのはつまり不正をしないということであるが、そんなものは別に男らしさでも何でもなく、人として当然あるべき倫理観だ。正々堂々自分の学力で受験したのに、女子が不正に減点されていた医大不正採点事件はまだ記憶に新しい。浪人男子も不当に落とされていたが、そのことについて「男らしく正々堂々と受験したのに!」というコメントは見受けられなかった。当然だ。共学大の受験に性別など関係ない。
 そしてアスリートの女性たちは女子スポーツの世界で鍛え、ライバルたちと鎬を削って、正々堂々試合に臨んでいる。「体は男だけど心は女なんですぅ」などと抜かして女子スポーツの世界を荒らす男とは比べるまでもない。ではトランス女性を名乗る男は「男らしさから降りた」と言えるのかと言うと、まったく違う。この男がただ人としてクズなだけなのだ。性別は関係ない。
 つまり「正々堂々」は別に男らしさでも何でもなく、聖人でもとりたてて善男善女でもない普通の人が普通にしていることなのだ。

 次に弱者救済。社会制度に直接手を加えられる立場以外の一般人にできる「弱者救済」といえば、要は目の前の困っている人を助けるということだろう。電車で老人に席を譲る、道案内をする、大きな荷物を抱えた人の代わりにドアを開ける。小さなことだが健全な社会はお互いの思いやりで成り立っているのだ。では、女は目の前の困っている人を助けないのか? そんなことはない。むしろ弱者を労わる気持ちがしっかりある若い女性を罠にハメようと、怪我人や病人、障害者のふりをして不必要な「介助」をさせたがる男に遭遇した体験談はネットに溢れている。
 かの有名な殺人鬼テッド・バンディも怪我人のふりをして女性を油断させていた。女が目の前の困っている人を助けない性別なら、彼もこの手口を選ばなかっただろう。そもそもテッド・バンディほどの二枚目なら、普通にナンパすればいい。しかし二枚目がナンパするより、怪我人や病人を装った方が、女性は親切心を出して油断して近づいてしまうのだ。
 私も雨の日に転倒して顔を怪我して泣き出した子供に付き添い、通りがかった警察に後を頼んだことがある。以前は観光地の近くに住んでいたので、家族連れの観光客に道を訊かれることはしょっちゅうで、時間のあるときは近くまで案内したこともある。そして私は別に男らしさや女らしさに拘ってしているわけではない。特に泣いている子供に付き添うのは大人として当然のことだ。
 実家に住んでいた頃、夜に人通りの少ない場所で県外ナンバーのミニバンに乗った男性に声を掛けられた。「道が分からなくて! さっきから学校か塾帰り?の女子高生しか通らないから声掛けられなくて…!」と半泣き状態だった。近くに交番はない。というかあっても彼は場所が分からない。私は本当に困っている様子だったことと、自転車に乗っていたので「最悪チャリで逃げ切れる」と判断し、「そりゃあ声掛けられませんね」と半笑いになりながらも道案内した。相手の男性は何度もペコペコと頭を下げて、目的地に向かっていった。このとき男性と私が守ったのは、帰宅途中の女子高生だ。本当に困っていても子供には声を掛けず、大人を待った男性。男性に道案内し、大人同士で事を済ませた私。
 つまり「弱者救済」も別に男らしさでも何でもなく、普通の人が普通にしていることなのだ。漫画のような場面に出くわしたことは無いが、たとえば溺れる子供がいたら、助けに行くだろう。以前話題になったベビーカー体当たりおじさんは「男らしくない」ではなく、ただただ人としてクズなのだ。

 最後に「筋を通す」。これは「正々堂々」とほぼ同じだ。筋の通らない言動・主張をする者は性別が何であれ糾弾されてしかるべきだ。だから男女に絡めて言えば、ミソジニーとミサンドリー、どちらも非難されている。
 私は冒頭に述べた通り、ノーメイクだ。風呂上りに安い化粧水&乳液でスキンケアをし、外出時に日焼け止めを塗る程度。昨今、化粧は女性だけのものではなくなった。私なんぞより余程メイクに詳しい、プロのメイクアップアーティストでもない普通の男性はもはや珍しい存在ではない。そして彼らは化粧をしていても男性で、化粧に興味があるからといって「心が女性」とは言えない。そもそも化粧が女性のものではなくなった今の時代に内面の性別を規定すること自体が「筋が通らない」のだ。

 要は過去「男らしい」とされてきたことは、性別関係なく人としてあるべき姿であって、漫画のようなシチュエーションを想定せずとも、小さなことは誰でもやっている。不正を犯し、目の前の困っている人を見捨て、筋の通らない主張をする者は男女問わず道徳心や倫理観を捨てているのだ。

 ちなみに私は男性専用サウナやカプセルホテル、美容室、宿泊プランに文句を言ったことはない。女性が利用できる施設を探せばいいからだ。美容室などはエステサロンのような内装で、中高年男性が少し二の足を踏んでしまう部分もあるだろう。男性専門で昔の喫茶店のような渋い内装という、男性に居心地の悪さを感じさせないビジネスモデルがあっていいはずだ。宿泊プランは「男性専用」の記述を見たときはガッカリしたが、あれは同じタイプの部屋を並べたフロアを男性専用にすることで、女性を犯罪から遠ざけているのだ。こちらも「じゃあしょうがないな」と納得できるし、そもそも営利企業なのだから客を選ぶ権利は当然ある。自分の主張を通した際に掛かる費用や人員について負担を負う気がないくせに、差別差別と声高に叫ぶのは「筋が通らない」と、私は思う。

 では「男らしさ」から降りるとはどういうことなのか? 男女の垣根が少しずつ取り払われている今、その性別にしか出来ないことが、その性別の「らしさ」ではないか? つまり、子作りのためのセックスだ。男性は射精することで、女性は妊娠・出産すること。なるほど、今後結婚する気も、ましてや妊娠・出産する気もなく二次元に浸っている私は、メイクするしないよりよほど「女らしさ」から降りていると言えるかもしれない。男性も同じだ。彼らはもうとっくに「男らしさ」から降りている。後は犯罪を犯さず普通に生きていれば、その人の人生はその人のものだ。周囲がケチを付けられるようなものではない。こっちは望んで独り身でいるんだ。放っておいてくれ。

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