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紳士の雨傘

雨が降ると、思い出すことがある。
それはもう、わたしがまだ可愛いと言われる年代だった頃のことだ。

わたしはその時、表参道の交差点にいた。
たしか今くらいの時期で、あの日は雨が降っていた。
なぜなのか、理由は思い出せないが、わたしはその日、傘を持っていなかった。地下鉄の出口を出て、交差点を眺め、側溝を、まるで川のように流れる水を眺めていた。
待ち合わせ場所まで、わずかな距離だった。時間が少し早かったから、わたしはただ、出口すぐの軒下で、信号が青になるのを待っていたのだ。

雨は小降りとは言いがたく、わたしを含む世界全体が、薄い水の膜に包まれているようだった。
そこを、まるで魚の群れのように進むクルマや、傘をさした人びとの流れ。色とりどりの魚たちが、水の膜の中で呼吸し、そして進んでいく。
うっすらと青く染まる世界を、わたしは眺めていた。

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どのくらいの間、そうしていたのか。
いや、時間にするとおそらく、2分くらいだっただろう。
私の視界が、ふいに何か黒いもので遮られた。なにかに引かれるようにゆっくりと、私はその視界の黒いものの正体を眺め、それが傘であることを知った。黒く、大きな、男物の傘。

「なにをしているの、濡れてるじゃない」
そんな声が、左上のほうから降ってくる。ゆっくりとした動作で、わたしはその声の主を見上げる。ここになぜ「彼」がいるのかが、理解できなかった。それはアルバイト先の店長で、この時間は働いているはずだった。職場は表参道からは少し距離がある。
いるはずもない人物。いるはずのない時間。

「あ、友だちと待ち合わせをしていて」
説明する自分の声が、水の膜に溶ける。歩き始めることを促す、横断歩道の単調な機械音が耳に飛び込んでくるが、私の前には大きな黒い傘の端がある。

「そうなの、ここから遠いの」
「いいえ、すぐそこです」

彼は、気遣うようにゆっくりと、私にそう問いかけた。機械音が早く響くような気がして、少し気持ちがはやる。
その合間にも、雨の音。

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「これ、持って行って」
突きつけられるように、木製の柄が私に差し出される。
「え、すぐ近くなので」
「いいから」
不要です、と言いかけた言葉を遮るように、彼の大きく優しい声が降る。
そして、先ほどよりは強く、柄が差し出される。私は手を伸ばしてそれを受け取った。

「風邪を、ひかないようにね」
そんな短い言葉を残して、彼は、じゃあと短く別れの言葉を口にして、足早にその場を立ち去ろうとする。
「あの、ありがとうございます」
私の声は彼に届いただろうか。たぶん右手を挙げてくれたから、届いたのだろう。それともあれは単なる偶然だろうか。

単調だった機械音がいつの間にか消えている。
わたしはまた、赤い光に染まった水の膜と、足元で渦巻く水たまりに視界を落とす。

頭上からは、小気味の良い音をたてて雨が降る。
紳士の雨傘の上に。
優しい紳士の、優しさの上に。

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雨が降ると、思い出す。
表参道の交差点で出会った、一人の紳士のことを。
私の手に残った、大きくてしっかりした雨傘の感触を。
耳に小気味よく響く、雨の音を。
優しくけぶる、水の膜につつまれた、街の色を。

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