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第30話≪カナデの章⑥≫【piero/mascot/crown】ーキトラ古墳12獣頭人神像の覚醒と酒舟石と勾玉ー

『この世にそ 楽しくあらば 来(こ)む世には 虫には鳥にも 我はなりなむ』
(万葉集 3・三四八 大伴旅人)
―この世では 楽しくいられるなら
  あの世では 虫でも鳥でも私はなろう

『生(い)ける者(ひと) 遂(つひ)にも死ぬる ものにあれば
   この世にある間(ま)は 楽しくをあらな』
(万葉集 3・三四九 大伴旅人)
―命ある者は いずれは死にゆくものだから
   この世にある間は楽しくありたい

万葉集は現代の「歌」と一緒で声に出して詠み、リズムや響きの面白さを独自のメロディラインを織成す。歌はいつも「一人称」。だから、「私」が詠むから時代を超えて万世まで伝わる。歌の数は総数約四千五百首、全二十巻である。一番最古と伝承されているのは、仁徳天皇(四世紀)の御妃である磐野(いわの)姫の歌で、天皇、貴族から防人(さきもり)まで、さまざまな位の人たちが謳ったものを大伴家持が編纂に深く関わっている。

カナデは田んぼの横の畦道の柔らかい土を踏みながらルンルン口ずさむ。


「海人娘子(あまおとめ) 棚(たな)なし小船 漕ぎ出(づ)らし 旅の宿りに 梶(カヂ)の音聞こゆ」
―海人の少女が棚なし小舟で漕ぎ出しているらしい 旅の宿に 梶の音が聞こえている

眼には見えなくても、音【オト】から想像できる聴覚だけの世界の歌。

奈良は全方向を山に囲まれ、「海」は旅をしなければ目にすることはできない。だから、海にまつわる歌はとても特別なもの。

「ああああーーーー!!!今私、旅してるんだなーーー!!!」

カナデは気持ちのいい空気を肺胞から全身の細胞に届けるともに、のびーーーと両手を万歳、大きく伸びをしながらまず高松塚古墳に向かう。道路を挟んで左手に可愛らしい農村カフェがある。

ココは自然に触れるのが怒涛の幸福の嵐らしく、ススキにすばしこく上ろうとすると自身の体の重みでススキは首(こうべ)を垂れ、ココは宙ぶらりんでわふーーー!!とブランブラン遊びシュタッと地面に遊んでテントウムシを追いかけてるうちに、どんぐりの山。ココにとったら、どんぐりの山は黄金の山である。きゃはーー!!とココは我を忘れてどんぐりの山に走り、かかっかかっかかかかっと人間の眼には見えぬほどの物凄い速さでどんぐりの固い殻を綺麗にピーラーでニンジンの皮を剝くように、中身の柔らかい新鮮な実をはぐはぐもぐもぐ両頬に詰めては詰めるのエンドレスリピートである。
農薬がかかっていないので、中の実から何かの虫の幼虫の分身らしきものを発見したココは実を驚いてキャーと放り投げたり、赤い粒が麗しくまるで宝石のような南天の実の群集によじ登って、ぴょこんぴょこんすばしこくカナデに楽しい!楽しい!を身体全体で表現する。

「ココ!幸せだね!」

まるで欧州の画家マネのような風景が360°美しい。
反対側の帰路の方向から、ゆったり村のおじいちゃんがおばあちゃんののった車いすをゆっくり押しながら、贅沢三昧のこの壮大な古代ロマンの風景をゆったり楽しみながら散策している情景に、カナデは思わず涙腺が緩みそうになる。

小さい頃、お母さんはよく私を連れて山にいって山菜をつみにいったりした。
「この草は行者(ぎょうじゃ)ニンニクといって、本当にニンニクの香りがするのよ」
「ほんとだー!緑の細長い草なのにあの真っ白の塊のニンニクと一緒ー!」

あの夜の晩御飯は農家の人から頂いた鶏の生みたてほやほやの卵を長箸でといて、そこに一口サイズに切った行者ニンニクと少々の醤油、砂糖を一振り、繊維にそって切った鳥の胸肉をゴマ油のひいたフライパンで和えたものが小鉢でおかずででたなぁ…

田んぼは冬に備えて水抜きをしている。子どものころ、アオダイショウという巨大な蛇が夏で水張りをした田んぼの水面をもの凄い勢いで、こちらに一目散にめがけて威嚇した怖い顔に口をがばっと開いてうねうねと泳いできて、泣きながらキャー―――――――!!!!!と逃げた思い出が蘇り、今は立派に整備されてしまった高松塚古墳周辺を歩きながらも、地面近くに蛇の穴がないかカナデは恐る恐るチェックしながら前進する。

シマリスのココはもともと自然界の中でのびのび生きていた本能で、満喫しながらもカナデの歩調に合わせてすばしこく草の間を走り回り自由自在きままに遊び、興奮のあまり、カナデの身体をピャッと駆け上がって、カナデの頭の上で、わーい見晴らしいいよー!と万歳している。

カナデはどこか外国のような風景、西洋の印象派の画家の中の世界にいるような気分にもなり、と同時に今私が歩いている道は、聖徳太子や蘇我氏、持統天皇、天武天皇が歩いていた…と、一つの道なのに世界にバラバラしかも時代もバラバラの壮大なストーリが文珠のように絡み合うようなとても不思議な感覚を体感する。まるで、時代を遡り、「歴史」という伝承で語り続けられてきた巨大なストーリーを私はトレースしながら同じ道に足跡を残しているようだ。

「12」は本当に奇跡の数字。
カナデは天文学好きな♭との会話を思い出しながら飛鳥と結びつける。


キトラ古墳には十二干支(中国では十二生肖とも呼ばれる)、つまり子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥は昔、時間や方角を表すものとして用いられており、やがて獣に衣を着せた動物図で描かれる獣頭人神像が描かれている。そして東方7宿、西方7宿、南方7宿、内規、外規、赤道、黄道、北極五星という「星宿図」と呼ばれる天文図が天井に描かれているのである。


全世界的にはキリスト教という聖書が一番のベストセラーの書籍だ。<BR>
聖書も、ギリシャ神話も、北欧神話も、そして日本の天照大御神(アマテラスオオミカミ)の神話、仏教の由来も全て名前は違えど全体の壮大な分量の話の構成は一緒だということに気づく。
「神」という存在がこの世界を作り、人間たちの煩悩に悩まされる神々。ギリシャ神話の神々は人間よりも人間臭いところがあるが、ゼウスがこの世界を作ったというところは、キリスト生誕、天照大御神が現れることなどと類似している。

そして時間の概念であるが、なぜ「12」が西洋でも東洋でも時の分割としての数字になったのだろうか。

カナデはポケットからお守りの清流の音が中で流れている真っ白の勾玉を取り出す。
勾玉は中国での陰陽のマークに似ており、日本でも陰陽師という占い師が歴史上現れる。


全部ぜんぶゼンブzenbu繋がっている…

高松塚古墳にやっと辿り着いたカナデとココ。
今日は休館じゃなくて中に入れるみたいだとほっとする。

そのときだ、右手のひらに載せてなんの思いもなくただ眺めていた穢れなき清勾玉が光り出し、太陽に反射した光が凝縮して乱反射ではなく一筋の光線を産みだし、ある場所へと光の筋道は指指している。
定位置カナデの左肩にチョコンとのったココは不思議そうな顔でじっと勾玉の光をみつめる。

酒舟石……

方角的にキトラ古墳とは真逆のここから4km以上離れた坂の山道で行く聖徳太子(厩度の王子)の生誕地、橘寺から飛鳥宮跡と日本で一番初めに建築された寺と伝承される飛鳥寺の間にまたさらに山の中に入っていくと、奇妙な石造物が群集している亀形石造物の近くに酒舟石という謎に包まれた巨石がある。
その巨石は水時計として使われていたとされているが真相は不明である。

しかし、その巨石には方角か何かに向けて指すように一筋の水路が丁寧に彫られている。
その一筋の水路にカナデの勾玉が反応しているのだろうか。

カナデはココと不思議だね…と顔を見合わせる。

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