「東京心覚」で終わる一つの思春期
※心覚と天伝のネタバレありです。
天伝「お前は何者なのか?」
天伝を見ながら、私はずっとこう問われているような気がしていた。
誰かの兄や誰かの息子ではなく、お前自身は何を成し遂げられる人間なんだ、お前は何者なんだ?
一期一振は答える。「粟田口吉光による唯一の太刀であり、豊臣秀吉の刀である」。彼には、彼の答えがある。一体何者であるのか。
私もずっと、「それ」が欲しくてもがいていたのだ。
ずっと何者かになりたかった
話は変わるが、この前ボスから「論文を出してみないか」と言われた。
研究者にとって「論文を出す」とは、要は「デビューする」という事だ。積み上げてきた結果を、思考を一つの纏まった形にして、「私の発見はこれです!」と世に出して見ること。
そしてそれはほんのささやかだが、「研究の世界に名前が残る」ということでもある。
正直、喜びより先に怯えが先に立つほど、腹にズシンと来た言葉だった。
ずっと「何者か」になりたかった。色んな人に、名前を知ってもらえるような。
なりたくてなりたくて、研究者と小説家の二つを目指した。後者はまだまだ夢の途中だが、前者はそろそろ叶わんとしている。
一番人口の少ない県の公立中学に通い、その中でも特に頭の良い子供ではなかった。そこから少しずつ少しずつ這い上がって、二年前、アカデミア研究者を多く輩出するいまの研究科に、研究室に何とかたどり着いた。
あの頃描いていた「何者か」には、もしかしたらなれるかもしれない。
そんな想いを抱えていたところの、「何者かになりたい」という私のささやかな思春期を打ち砕いたのが「東京心覚」だった。
少しくらい何かになったって、私たちは歴史に押し流されていく
研究者、いけるかもしれない。
小説家も運が良ければ、このまま努力を続けたら、もしかしたら何とかなるかもしれない。
でもそれが一体なんなんだ? と、昨日、心覚を見て気づいてしまった。
少しくらい発見をして、少しくらい本を出したところで、それは「歴史」から見たらとても些細なことだ。
徳川家康のやった「300年間の安然を作る」に比べたら、刀剣男士の元主からしてみれば、あまりにもあまりにも小さなことだ。
2205年、きっと私の書いた論文も小説も残っていないのだろう。
私なんか水心子くんから見たら、歴史という川の中のほんの一粒でしかないのだ。
何者かにはなれなくても頑張って生きていく
ただそれを全部踏まえた上で、水心子くんは歴史の一粒である私たちを肯定した。
悔しかったかもしれない。選んだかもしれない。でもどうか、傷つかないで欲しいと。
きっと頑張っている子達だ、と。
昨夜から、ずっと私を指さしてげらげら笑っている何かがいる。
「おいおまえ! 研究者になったって、小説家になったって、所詮お前は何者かなんかじゃないんだってよ! どうすんだよ! あんなに時間を費やして、あんなにボロボロになったのに!」
けれどそれに対して、「いや私それでも、研究も小説も、頑張ることも好きなんだよ」と言い返す自分がいる。
何者かになるための戦いは昨夜終わったかもしれないけれど、実験結果を見た瞬間ひとりガッツポーズした自分が、自分の完成した小説を読んで「これを書けてよかった」と思った自分がいて、それを水心子くんが肯定してくれたので、おそらくこれからも研究も小説も頑張ってつき進んんでいくことができる。
むしろ「何者かになりたい」を失った今ここからがやっとスタートなのかもしれない。
水心子くん、スタートさせてくれて、ありがとう。
ここまで読んで下さってありがとうございました。
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