足元にいる絶望に寄り添ってくれた東京心覚

東京心覚に救われた自分をまた一つ見つけたので、記事にしておきます。

心覚のネタバレ及びパニック障害のパニック描写があるので、ご注意下さい。

七年前やってきた「絶望感」のはなし

病院で「パニック障害」と名前がつけられたその絶望感がやってきたのは、七年前、ちょうど大学受験真っ只中の事だった。

「いつか死んで、永遠の暗闇に放り出されて、そのまま私の痕跡さえいつか塵となる」

お伺いもなしにやってきた突然やってきたその絶望感は、過呼吸や悲鳴をあげるほどの恐怖、焦燥感、動悸と共に突然脳内に居座った。

誰もが一度は抱いだ絶望感なのかもしれないが、いてもいたってもいられないほどの強さと、1日中それに脳内を支配されている状態は明らかに異常だった。

両親はすぐさま病院に連れて行ってくれたが、当時の私は上記の絶望を医者の前で言葉にすることができず、弱い安定剤が処方された。その薬は正直焼け石に水で、受験勉強どころか、生活に支障が出る状態が続いた。

無音が恐ろしく、しかしバライティの賑やかな音や明るい音楽も吐き気を催すので耳にする事ができない。バラードも、その穏やかさが「永遠の無」を連想させて無理だった。何故か唯一再生できたのが、Greeeenの『緑のたけだ』だった。犬や家族の生活音を耳にできない一人の時間は、延々それを再生してやり過ごした。

何も手につかない中で、唯一できた事が、小説を書くという事だった。

できた、というより、やらないと発狂してしまう、小説を書くことの先でしか、この恐怖は乗り越えられないと信じていた。まっくらやみの希望のない世界の中で、物語が唯一の救いだった。

そしてこの時やってきた絶望感は、しだいに小さくなっていき、一度は「じゃあね」と言って去っていった。

二年前にやってきた「絶望感」のはなし

そいつが再度私の元を訪れて、七年前よりも強く長く頭を支配し始めたのは、二年前の事だった。

一週間ほどパニックとめまいの止まらない日々を過ごし、「あ、これは一人で解決するのは無理だ」と悟り、精神科にかかった。「死ぬ事が怖くて何もできない」と号泣する私を見て、医者は強めの安定剤を出してくれた。

薬との相性が良かったおかげもあってか、その絶望感は薬を飲んでいる間だけは、しゅるしゅると小さくなって大人しくしてくれるようになった。

七年前そうだったように、少しずつ少しずつ体調は好転したが、今度は絶望感は完全には去ってくれなかった。

今でも私の足元には「やつ」がいる。

死んでその痕跡さえ流れ去っていくことを憂い、「うわぁああああ!」と隙あらば叫ぼうとしているやつだ。「はい、おとなしくね」と薬で頭を撫でながら何とかうまくやっているが、もしかするとまた暴れ出す日が来るのかもしれない。

「傷つかないでほしい」と初めて言われた

そんな絶望感、水心子くんに言わせてみれば「歴史という川に流されて消えていくこと」を苦しむ気持ちを、私はほとんど人に話した事がなかった。

そんな事考える方がおかしい、考えすぎだ、死ぬのが怖いのはみんな同じだ、それでパニックを起こすお前はおかしい。

そう言われることが、うすうす分かっていたからだと思う。「パニック障害」という病名が存在することもあって、「おかしいのは私の頭だ」とも思っていた。

実際、私の頭がおかしいのかもしれない。

でも水心子君は、「傷つかないでほしい」と言ってくれたのだ。

「傷つかないでほしい」は、「傷ついていたんだね」と、ほぼ同義だ。そこにいた「やつ」の存在に傷つきながら生きてきたことを、私は初めて水心子君に許容されることができたのだ。

やつは多分、一生いる

薬を止めると私は真っ逆さまに「落ちる」し、少し足元に意識を向ければいつでも「やつ」がいる。

そのせいか、私は眠る事がとても怖い。「意識がない自分」を観測できない事にぞっと寒気がする。スマホのアプリでとっている睡眠記録で「深く眠っていましたよ」なんて言われると「ひっ」と声をあげたくなる。できれば人がたくさんいるところで、ぎりぎり意識のある浅い眠りばかり繰り返していたい。しかし現実はそういう訳にもいかないので、脳を強制シャットダウンする薬を飲んで、「怖い」が這い上がってくる前に眠るようにしている。

許容されたから、「やつ」がいなくなる訳じゃない。おそらく「やつ」は、一生いるのだ。

でも許容されたおかげで、私は初めて、「やつ」の存在を文章でまとめる事ができた。

傷ついていたんだね、と言ってくれた水心子くんがいたから、多分私はこれからは、少しだけフランクに、「死んで、痕跡も存在も消えるの、怖いんだよね」と言えるんだと思う。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?