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犬に会いたい

 犬に会うと、よく触らせてもらう。基本的に人見知りなので知らない人間に声をかけたりなど滅多にしないのだが、犬が連れているひととなると話は別だ。犬が連れているひとに「触っていいですか」と声をかけ、いいですよと言われると犬を撫でさせてもらう。本当は犬に直接許可が取れれば話は早いのだが。
 犬の中でも特に、柴犬が好きだ。基本的に警戒心が強くシャイな彼らなのだが、わたしは意外と触らせてもらえることが多い。犬は匂いで相手の感情を知るらしいので、わたしからはもしかすると「柴犬に触りたいという切実な匂い」が醸し出されているのかもしれない。彼らは時に仕方がなさそうに、特に愛らしく、わたしへと顎の下のやわらかな毛を差し出してくれる。
 しかしそうして触らせてもらって、ときどき、「あれ、何かが違うな」と感じることがある。シャイな柴犬と言っても個体差があるので、愛想よくわたしに頭をすり寄せてくる子もいれば、すんっ……と石のように固まっている子もいる。でもそうした態度はすべて、「他人向け」の態度なのだ。他人なのだから、当たり前なのだが。
 実家で飼っていたあの子のように。どうでもよさそうにふんっと鼻を鳴らしながらも頭をすり寄せてきたり、堂々とひとの手を枕にしたり、全力で甘えるように鳴いてきたりはしない。前足でおやつの要求もしない。
 そうした違いを感じるたびに、わたしは確かに一匹の柴犬と固い絆を結んだことがあるのだ、ということを実感する。実感するたびにどうしても会いたくなるが、彼はもういない。

 わたしが初めて通過した親しい生き物の死は、愛犬の死だった。その後も何度か、親しい相手を、大切な相手を亡くしてきた。
 喪った日は、わんわん泣く。泣いてもどうにもならないと知りつつ、どんなに暴れてもその相手が返ってこないと分かっているから、嫌だ、嫌だと泣くしかない。そのまま三日三晩くらい泣ければいいのだけれどそういう訳にもいかないで、次の日には泣き止んで、大学に行ったり、働いたりする。その日の夜また泣いたりするけれど、基本的に一か月くらい経ったら泣き喚いたりすることはなくなる。
 けれど、それは悲しくなくなったわけではないのだ、と、いくつかの喪失を経て知った。
 泣いて暴れるほど、会いたい。それが叶わないから悲しい。その感情は、ずっとずっとわたしの内側にある。ただ毎日泣いて過ごす訳にはいかないので、身体の内側だけで泣くすべを覚えただけだ。
 今日も大学で、犬と、犬に連れられているひとに声をかける。喜ばれると嬉しいし、喜ばない犬の味わい深さはたまらない。でも同時に、わたしは悲しい。どうしようもなく犬に会いたいからだ。

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