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都営シャチ館

 僕は、サカマタという名前で、第八区画で働く男娼である。
 第八区画は、性的サービスの提供を行う店をまとめる目的で作られた区画だ。半透明の分厚い強化特殊プラスチック壁で覆われた立ち入り特殊区画なので、入るためには認証ゲートを通る必要がある。第一から第九まであるそのゲートは、十八歳以下、その他性的サービスを受ける資格がないと判断された人間のIDカードでは通ることができない。
 そんな「お堅さ」を持っている第八区画だが、ひとたび中に入ってしまえばそこは楽園だ。人間が持つ多種多様な性的嗜好を持つ人間に対応した店がぎっしりと立ち並んでいる。ノーマルセックス、サディズム、マゾヒズム、ヘマトフィズム。緊縛や視姦。男と、女、そのどちらでもないもの。心の奥深いところに抱えた欲求をなんの躊躇いもなく満たしてくれる店たちの並び方には秩序というものがない。タイル張りやアスファルトや土で覆われた地面には、煙草の吸殻や花名刺、ゴミたちと一緒に「一般的であるべきだ」という常識が投げ捨てられている。僕はこの、第八区画のごった煮が嫌いではない。
 僕はその中の、結月庵という店で働いている。結月庵のすぐ傍には第二ゲートがあり、第二ゲートを東に抜けると、第三区画へと入ることができる。
 第三区画は、第八区画と違って「清潔な」区画だ。良くも、悪くも。
 美術館や博物館、その他文化や化学を振興するための施設が、ゆとりを持っておかれている。各施設の前には大抵広い芝生が広がっており、日曜日になると、青臭い芝生の上は多くの家族連れで賑わう。遊ぶ子供、弁当を広げる母親、子供の質問に答える父親。質問、答え、正解。絵に描いたような正しい家族の形たち。
 そんな第三区画の西端、一番第八区画に近い場所にあるのは、都営シャチ館という謎の名前を持つ建物である。行ったことがないので分からないが、おそらく、シャチ専門の水族館のようなものだろう。
 僕はシャチを直接見たことがない。けれど、シャチという生き物は水の中でどう暮らしているんだろうと思う時、少しだけ複雑な気持ちになる。
 小さな頃魚だと思っていたその生き物は、魚ではなく哺乳類らしい。哺乳類がわざわざ海で生きなくていいのに。苦しくないのだろうか、と思ってしまうからだ。

 結月庵は遊郭をコンセプトとした店だ。和風の平屋づくりに、畳を敷いた部屋で客を出迎える。遊郭というには、売られているのは女ではなく男ばかりだけれど、客は男も女もどちらも来る。
 第八区画の中では比較的高級店であるこの店は、二人の男娼に一つの待機部屋を与えている。僕と同室なのは、志鶴という、この店でナンバーワンの売り上げを持つ男娼だ。
 志鶴は結月庵のコンセプトを愛しており、日々打掛を羽織って煙管を吸い、自らを「花魁」と自称する。日々その美貌を磨き、客の夢を決して壊さない志鶴を尊敬し、僕や他のスタッフたちも彼のことを花魁と呼んでいる。
 今日も待機室で煙管を吸いながら、志鶴が深いため息をついた。煙管の渋く甘い匂いと一緒に、志鶴の身体の骨まで染みついた憂鬱が、部屋へと広がっていく。
「たまには、まともな客でも来て欲しいもんだね……」
 僕は思わず微笑んだ。志鶴の言う「まとも」のハードルはものすごく高い。曰く、自分の幸福の在り方をきちんと知った上で、それを誰にも迷惑をかけずに実現し続ける、ということらしい。それはあまりにも難しいことだ、と思う。
「それは無理な相談ですよ、花魁」
 いつも通り返すと、花魁が再び深いため息をついた。
「そうだね。人間はみんな、まともじゃないからね……」
 それもまた志鶴の口癖だった。控室で共に過ごしていると、週に四度は耳にする。
 僕はそうですねぇと適当に答えながら、鏡を覗き込んで化粧を続ける。志鶴と比べるとぱっとしない、平凡な顔だが、化粧をすれば少しは「見れる」ものになる。
 シェーディングを差しながら、志鶴の口癖を、脳内で反芻する。
 人間はみんな、まともじゃない。
 そうなのだろうか。少なくとも僕には、僕以外の人間はみなまともに見えて仕方がないときがある。僕以外のみんなはちゃんと生きれる中で、僕だけが歪んでいるのだ。そういう風に。
 やがて志鶴が呼ばれ、しばらくたって、僕にも指名の仕事が回って来た。
 ミチさんという、遣り手係の人が淡々と「二時間コースです。十分後に来られるそうです」と告げる。ミチさんはボブカットで人形のような美しい顔をした、性別不明のスタッフだ。僕は吸っていた煙草をもみ消しながら立ち上がった。
「誰が来るか分かる?」
 ミチさんは淡々と、表情を変えずに言う。
「うららさんです」
 その言葉に、僕は思わず、ほっと息を吐き出した。
 うららは一年ほど前から通ってくれている、僕の氏名客だ。彼女はほとんどの人間が「まとも」に見える節穴な僕の目から見ても、特段とまともに見える女性だった。礼儀正しく、常識的で、お金を払ってセックスをしているということを決して忘れない。僕のことを対等な人間として見てくれるけれど、してほしいプレイは客の権利としてある程度要求してくる。僕が嫌がることは無理強いしない。
「分かった。着替えてからいく」
 うららは、モノクロームの服を好む。僕は着流しの帯を解いて、白シャツと黒のズボンを手に取った。

 薄い障子あかりの中、布団の上でうららの身体がびくっと震えた。
 うららの手首を布団に押し付ける。切なくその手のひらが握りしめられると同時に、うららの「中」もきゅうと絡みついてくる。その頬は、恍惚で薄紅色に染まっていた。
 きれいだな、と、思わず、心の内で呟いた。
 おそらく二十代後半か三十代後半くらいのうららには、年相応の色香がある。みずみずしくも、ふわりと柔らかな肌。セックスにもよく慣れた彼女の肌は、汗でしっとりと潤っている。
 どうして、うららは、僕を買っているんだろう。
 時々疑問に思うことがある。うららなら、別にお金を払って男娼を買わなくても、恋人を作ったり、セックスの相手を見つけたりすることくらい容易いだろう。それなのに、うららはここに来て、安くないお金を僕へと払う。僕に恋心を抱いている訳でもないのに。
「……は、ぁっ……」
 細くて高い、笛の音みたいな声を出してうららが達する。僕も声を殺して、うららの肩に顔を埋めて達した。
 男娼の声を聴きたがる客とそうじゃない客がいるけれど、うららは後者らしい。彼女はそういうことも一つ一つ言葉にしてくれるので、僕は仕事がしやすくて、助かっている。
 僕はゆっくりとうららの中からそれを引き抜いて、彼女をやんわりと抱き寄せた。はぁ、と深い息を漏らすうららの前髪をそっとかき分けて、形の良いその額をてのひらで覆った。ひんやりと、冷たい。
 戯れのように絡んできた指を、握り返す。そっとその手を持ち上げると、うららの白い手首がうっすらと光った。
 うららの右手首には、複雑な島のような、痣のような、独特なタトゥーがある。白い手首に浮かび上がる黒く鮮やかなそれは、インクをぽとりと落としたかのようだ。
 何となくそのタトゥーを撫でると、うららがくすぐったそうに身を捩った。
 うららの手が僕の左腕へと伸びてくる。タトゥーを撫でたことへの仕返しか、僕の腕にある痣を撫でてきた。タトゥーではないけれど、僕の左腕にあるそれも、一生消えないものだ。一定期間強い力を受け続けてできた痣は、色が沈着してしまっているらしい。
「サカマタさんの痣って、きれい」
 うららが歌うように言う。僕は思わず、笑ってしまった。痣を綺麗だと言われたのは初めてだった。
「寝物語に、どうして痣ができたか語ろうか」
 うららはぱちり、と大きく一度瞬きをした。くるりとカールしたまつげが、蝶のように揺らめく。
「もう帰りますよ」
 うららはいつも泊まらずに帰る。二時間分きっかり僕と過ごし、共寝はしないのだ。
 分かっているよ、と僕は苦笑した。
「帰ってから思いだして眠るといいよ。よく眠れる」
「そんなにいい話なんですか」
「うん」
 僕はうららの指先をひっかいた。うららの大きな瞳がじっとこちらを見つめてくる。
「ここの花魁、いるでしょ。志鶴」
「あの、すごくきれいな男性」
「そう。
 この痣は元々志鶴のものだったんだけど、あの人が譲ってくれたんだ。結月庵で成功する男には、代々この痣があるもんだからって言って」
 うららのタトゥーをそっと左のてのひらで覆う。痣のある左腕にくっついた薬指と小指はうまく動かずに、震えながらうららの手首へと巻き付く。
 そんな仕草を気にも留めずに、うららは嬉しそうに笑って、僕にそっと口づけを落としてくれた。

 痣をもらったなんて、もちろん、嘘の話だ。うららの事だから、分かっているとは思うが。
 僕の腕の痣には、痛々しくて目も当てられないような物語がある。
 僕はここから約千キロ離れた場所で生まれた。区画の存在しない、志鶴に「とんでもない田舎」と呼ばれるような、小さくて閉じた村だ。
 田舎の窮屈さには、都会の窮屈さとはまた違った陰鬱さがある。皆が、「ほんとこの村ってなんもねぇよな」と笑って自嘲しながらも、その輪から抜け出す人間を指さして笑う。あのひと最近こんなことしたらしいよ、身の程知らずだよね。そんなうわさ話がすぐ村中に広まっていく。そういう、窮屈さが。
 また、あの町では、「同性愛者でも対物性愛者でも無性愛者でも、最低限二人の子供を残す」という暗黙のルールがあった。学校でも、家でも、それが素晴らしいことであるかのように教育された。
 僕は、そのルールがどうにも窮屈だった。子供が苦手だし、自分の子供を残すことが世間のためになると思えなかったから、特に。
「子供なんて残したい人が残せばいいのに」
 ある日家でふとそう口にすると、母親を泣かせてしまった。
 どうしてこんなに人の気持ちが分からない子に育っちゃったんだろう。
 母親は僕を戒めるために、そういう言葉をよく使った。やわらかいようで、僕の心を縛りつけるための、暴力みたいな言葉だと思う。これは僕の母親に限ったことではなく、強い言葉で人を縛り付けて、自分たちの雰囲気に合わないものを排除するような空気は、村全体にあった。ぞわぞわ、ぞわぞわ。恐怖を感じている僕のことを、教師はよく鼻で笑った。お前は村八分コース一直線だな。その村八分という言葉も、僕は大嫌いだった。
 都会に出ればいいのかもしれないと思いはじめたのは、十五歳くらいの頃だ。
 都会では、多種多様な人間がお互いの存在を否定せずに生きている。子供を産む人間も産まない人間も、みなが尊重され、好きに生きている。よく逃げ込んでいた図書室で、そういう話をよく読んだのだ。
 それまでの人間関係をすべて切り捨てるつもりで第七区画にやってきたのは、十八歳のときだった。
 ここにくればすべてが上手くいく——そう思っていた僕をまず圧倒したのは、あまりの人の多さだった。
 少し歩くにも、電車で移動するにも、人とぶつからないように最新の注意を払って歩かないといけない。都会で生まれ育った人たちはどうやら自然にそれができるらしいが、僕にはその能力がないようだった。
 僕は都会というものに、日々、神経をすり減らされた。ぶつかりそうな量の人々、派手なネオン、耳につんざく機械音。
 きちんと歩くためには神経をぴんと張りつめ続けないといけなくて、僕は左腕をつねりながら歩くようになった。ぎりぎり、ぎりぎり。そうして痛みを覚えている間だけ、僕は機械仕掛けの何かになって、都会を上手く歩けるような気がしていたのだ。
 しかし、やがて、左腕の薬指と小指が痺れはじめた。
 これはさすがにまずいと思って整形外科に行くと、強い力でつねり過ぎたのだと言われた。ここではもうできることは少ないので、精神科に行って下さい。そう進められるままに受診した精神科で、人が怖い、色んな音や光が怖いと告げると、疲れているんですねと言われた。神経過敏になっている状態です、と。
 僕は確かにその時少し疲れていたが、あまりにたくさんの人たちが怖いのは、音が怖いのは、僕にとって不自然なことではなかった。別に疲れているからではない。ただ、僕が僕のまま怖いだけだったのだ。それを何か異常な状態かのように言われて、僕は僕が異常な何かだと言われたような気がした。
 ただ幸いなことに、精神科で処方された安定剤を飲むと、僕は腕をつねらなくても歩けるようになった。一枚、心の防壁を手に入れたように怯えから解放されたのだ。代わりに薬が切れる時間になると言いようのない不安感が溢れ出るようになった。
 不安が零れおちないように、精神科で処方された四種類の薬を毎日飲んだ。不思議な気持ちだった。薬が切れて苦しいときが正気なのか、薬を飲んでいるときが正気なのか、僕はもうよく分からなかった。
 四種類の薬をきちんと飲んで、正気な何か、あるいは正気じゃない何かになって、ようやく僕は生きられるのだ。
 そう気がついたときに、僕はちょっとした絶望を覚えたのだった。つねり過ぎた左腕の薬指と小指は痺れたままもう元に戻らなくなっていた。
 僕は、どこでだって、うまく生きられっこないのだ。
 生まれた村も、都会も、どちらも僕の居場所ではない。
 その絶望も心の内に抱えながら、アルバイト先をあっちやこっちと転々とした。そして二年前、この店の花魁・志鶴に拾われたのだ。
 志鶴は僕が田舎育ちであることも、痣のことも、上手く生きられない絶望も、すべて笑い飛ばしてくれた。そういう影がある男ほど売れるのだ、と言って。

 うららに痣の話をしてから一週間後。久しぶりに昼過ぎから店に出勤していると、うららから突然店外デートの予約が入った。
 僕は驚いて、ミチさんに、本当にうららですか? と三回も聞き返してしまった。
 うららは僕へと執着しない客だ。デートもプレゼントも僕の本名も、そして愛の言葉も、求めない客だ。
 一体どういうつもりだろう、と思いながら、ミチさんに渡された店外デート予約紙の行先を見る。
 そこには、都営シャチ館、と書かれていた。
「お世話になっているお客さんだし、行くよ」
 ミチさんにそう言って店外デートを受ける。きっかり二時間、というところはいつもと変わらない。その規則正しさは彼女らしいなと思いながら、モノクロの服へと着替えた。
 第二ゲートを抜けて、都営シャチ館へと向かう。歩いて五分の距離だが、傍までいくのは初めてだった。
 都営シャチ館は、上に大きなシャチのオブジェを乗せた、楕円形の建物である。入口近くまで行くと、白と黒のツートンワンピースを着たうららが立っていた。僕の姿を見つけると、にこり、と笑う。
「すみません。急に」
「いいよ。これが仕事だし」
 普通の客がこういう物言いを嫌がるものだが、うららはどうもこの言葉が好きらしい。今日も丸いその目がとろん、と安心したように潤んだ。
 そんな彼女に手を引かれながら、都営シャチ館へと入る。
 僕は勝手に、都営シャチ館を水族館のような場所だと思っていたのだが、中は水族館らしからぬ内装だった。ロビーには赤いカーペットが敷かれ、大理石の大きな柱と壁に覆われたその場所は、まるで美術館のようだった。
 僕は少し虚をつかれながら、正直に感想を口にする。
「初めて来た。こんな場所なんだ」
 すると、うららがえっと声を上げる。
「サカマタさんも、シャチが好きなものかと思っていました」
「え? なんで?」
 思いもよらぬことを言われてこちらも驚くと、うららがきょとんとした瞳で見つめてくる。
「だって、サカマタさんのサカマタ、って、シャチの意味でしょう?」
 僕はぎょっとして、固まった。
 確かに、そうだ。
 源氏名を決めるとき、何となくふと心に浮かび上がったのが都営シャチ館だったので、シャチの別名を調べて、それで出てきたサカマタという言葉を使うことに決めたのだ。
 しかし、それを誰かに指摘されたのは初めてのことだった。

 都営シャチ館は水族館ではなくて、シャチに関する総合施設なんです、とうららは言った。
 シャチは、オスの月夜、メスの秋雨、二人の子供である夜滝の三匹しかいないらしい。
 その代わりに、シャチグッズショップ、シャチ・カフェ、シャチ図書館、はたまたシャチモチーフのスーツをフルオーダーできる店があり、地下にはシャチバーがある。そして、シャチに関する美術品の展示や研究施設まであるというのだから、驚いた。
「シャチを、ありとあらゆる角度から見た施設なんだね」
 そう言うとうららが、ええ、と嬉しそうに言う。
「だから、私、ここが大好きなんです」
「僕も思っていたよりここが好きみたいだ。どこから回る?」
 うららは迷いなく、シャチ・カフェに行きましょう、と答えた。三匹のシャチがいるシャチ大水槽のすぐ横にあり、シャチを見ながらコーヒーが飲めるらしい。
「……今日は私ね、サカマタさんを、月夜に紹介するために来たんです」
 うららの目が、うっとりと潤む。
 分かった、と答えながら、僕はうららの言葉をゆっくりと咀嚼した。
 月夜を僕に紹介、ではなく、僕を月夜に紹介、らしい。うららの言い間違いでなければ。
 うららの横顔をじっと見つめる。その顔は、セックス中と同じように——いや、むしろ、それ以上に上気していた。
 僕はふと、思う。これがうららの「まとも」じゃない部分だろうか。

 シャチ・カフェに着くと、大水槽でのびのびと泳ぐ三匹のシャチの姿が目に入った。
 思っていたより、二倍は大きい。
 その存在感に驚いていると、中でもひときわ大きな個体をてのひらで示して、うららが興奮した声で言う。
「あれが、月夜です!」
 うららの声が天井高くまで響く。僕は苦笑しながら、月夜へと視線を移した。
 そして、思わず、息を飲む。
 初めて見る月夜というシャチは、大きく、速く、身体をのびのびとくねらせて泳いでいた。その表面はなめらかな、人間の皮膚や魚の鱗とも違う不思議な素材で覆われており、水を弾いてつやつやと輝いている。
 その、生き生きとした姿に、僕は感嘆する。
 これが、海で生きる哺乳類か。思ったより雄々しく、激しく、獣らしい。
 うららがシャチ・コーヒーを、僕がシャチ・ミルクを注文する。その間もうららの視線はじいっと月夜を追っていた。
 よほど好きなんだなと、と思ってその横顔を見つめていると、ぽつり、とうららが言った。
「月夜は、私の恋人なんです。私は月夜の恋人ではないけれど」
「え?」
 なんて、と思わず尋ね返すと、うららがにこりと笑って、ようやくこちらを向いた。
 うららが右の袖口をめくって、手首のタトゥーを見せてくれる。複雑な、島のような形のそれ。
 僕は、はっとする。
 月夜とタトゥーを何度か交互に見て、ようやく分かった。うららのそのタトゥーは、月夜の背中にある黒い模様と同じ形だった。
「私もこれ、月夜から貰ったんです」
「……うん」
 僕はこの前そうしたように、そっとうららのタトゥーに触れた。
 白と黒のコントラストは、言われてみればシャチを思わせる。その皮膚はやわらかく僕の指を受け入れてくぼんだ。
 うららはくすくす笑って、サカマタさん、とかしこまった声で僕を呼んだ。
「はい」
「この前の痣をもらった話、すごくサカマタさんらしくて、優しくて、好きです。
 ……今日は、私と月夜の話を聞いてもらってもいいですか?」
 もちろん、と僕は頷いた。うららは再び視線を月夜へと移して、かろやかな声で語りはじめた。

 私は第一区画で生まれました。
 それで何となく分かっていただけるかと思いますが、かなりの名家の出です。家を継いで、国を動かすものとして、幼少期から厳しく礼儀作用や教養を叩きこまれました。
 第一区画の学校の中でもそれなりに優秀ですくすくと育っていたのに、二十歳のときに「第一区画不適合者」の認定を受けて、私は第一区画を追い出されました。ええ、よく言われる、没落貴族っていうやつです。
 第一区画不適合者の認定を受けたのは、「恋愛不能」の診断が出たからです。この子は一生涯、恋をすることはありません。人間を愛おしく思う遺伝子を持っていないから。お医者様にそう言われて追い出された事だし、自分でも、私は恋をしないんだろうなあって思いながら生きてきました。
 だから、まさか恋をするなんて——ほんとうに、人生を捧げてもいいと思えるほどの相手に出会えるなんて、青天の霹靂でした。相手はもちろん、月夜です。
 ひとめぼれだったので、正直好きになった理由は分かりません。
 ただ、とにかく全身を使って力強く泳いでいて、それだけで、世界で一番美しいものに思えたんです。
 没落貴族として、第四区画で後ろ指を指されながら生きてきました。かわいそうだねとやたら同情されたり、没落したなら偉そうにすんなよと笑われたり。第一区画を追い出されて以来、ずっと、生きるのは楽じゃなかったです。
 だから、いつか海にでも飛び込んで死のうかな、なんて考えていたのに、月夜に出会ってからの日々は、ぱっと光に照らされたかのようでした。多少辛いことがあっても、このあと月夜に会えるって思ったら頑張れるし、月夜のために生きていると思えば、ああ、私は生きる意味を見つけられたんだって思って。ぼんやりと生きている人に対して、優越感さえ抱きました。恋って、素晴らしいんですね。
 でも、一つだけ困ったことがありました。
 神様が、シャチに恋をするように私を作ったなら、そんなもの引き抜いてくれればいいのに、私に性欲があったことです。恋心に目覚めた日から、私は月夜と交わりたくて交わりたくて仕方がなかったんです。人とシャチの身である限り、どうしようもない、物理的に不可能なことなのに。それでも欲は私の頭の中に根を下ろして、しっかりと生えている。私はそのことに酷い苦痛を感じました。
 しばらくは、ただ、じっと耐え忍んでいました。シャチに恋をしたのだから、性欲なんて抱いてはいけない。抱いたとしても、一生抑えこんで生きていかないといけないんだって。
 ……でも、その糸がぷつっと切れたのだが、一年前のことです。
 そう、サカマタさんのお店に通いはじめた頃。
 月夜が、メスのシャチと交尾をしたのを見て、私は大水槽の前で悲鳴をあげてしゃがみこみました。
 どうして。どうしてそんなことをするの、って、本気で思いました。
 私はただあなただけを思って耐え忍んでいるのに、って。
 月夜からしてみれば勝手に想われて勝手に非難されるだなんて、すごくすごく理不尽ですよね。でも、それだけは本当に、あの頃の私にとって一番残酷なことだったんです。月夜が私の世界のすべてだったから。
 三日三晩泣いてから、私は決意しました。
 月夜を愛し続けるために、誰かとセックスしよう、って。
 私は、月夜をただ思って、それをずっとずっと貫くために、サカマタさんを買ったんです。
 サカマタさんを選んだ理由ですか? 自分でもうすうす気付いているでしょう?
 髪と瞳が黒くて肌が白くて、名前もシャチそのものだったから。月夜に心の操を立てられる気がしたんです。
 あとは、性欲の解消以外、干渉してこなかったからです。月夜以外に時間を使いたくなかったから、そういう意味でもサカマタさんがちょうどよかったんです。……失礼な言い方して、ごめんなさい。
 あのね、サカマタさん。私、サカマタさんを買っていることを、絶対に絶対に月夜に対して悪いだなんて思いません。
 だってその性欲はどうしようもなく私の頭の中にあって、そしてそれは月夜では満たせない部分だから。
 だからこそこれは、月夜を愛していくための選択なんです。

 一気に喋ってから、うららはそっとコーヒーに口をつけた。僕は震える声を出す。
「話してくれて、ありがとう」
 それだけ言って、僕は黙ってうららの告白を身体の内側で咀嚼した。うららも静かにコーヒーを飲んで、それ以上の言葉を求めてくることはなかった。
 黙り込む僕ら二人のことなど皆目気にせず、月夜が跳ねた。アクリル板の一枚向こう、大きな水しぶきが上がる。その一粒一粒が日光を受けて輝くのを眺めながら、僕は、自分と、うららの生に想いを馳せていた。
 田舎でも都会でも、どちらでも上手く生きられない自分。
 一匹のシャチを心の底から愛したけれど、性欲を捨てることができないうらら。
 僕もうららも、どうしようもない「ずれ」のようなものを抱えている。どこか居場所と言えるような場所にぴたりと嵌ればよいのだけれど、上手く嵌れなくて、ずれたその場所はときどき軋んだ音を立てて痛む。
 そのずれと痛みを何とかして埋めるために、うららは僕と寝ていたのだ。
 いや、もしかすると、うららだけではないのかもしれない、とふと思う。人間はみんな、まともじゃない。皆が何かしらその生にずれを感じて、苦しんで、時にそれを埋めるために第八区画へと来る。
 苦しいのは、痛みを抱えているのは、僕だけじゃない。
 そう思うとほんの少しだけ、まともじゃない自分のことが悪くないものに思えた。ほんの、少しだけ。

 都営シャチ館でデートしたその日以来、うららが結月庵へと来ることはなくなった。もう三か月も何の音沙汰もない。
 うららの連絡先は一応知っているけれど、僕は連絡する気にはなれなかった。
 もしかすると、サカマタという男娼と寝ること以外で、何かしら「ずれ」を埋める方法を見つけたのかもしれない。そうであればいい。
 そして僕はときどき、休みの日に都営シャチ館を訪れるようになっていた。
 水槽の中で今日も、月夜はのびのびと泳いでいる。
 シャチは、海で生きる哺乳類で、魚ではない。
 だけれど、海という環境に適応した身体を持つ彼は、まったく苦しくないように見える。生き生きとその身体をくねらせ、誰にも言い訳をせずに、生きている。
 いつかうららも僕も、彼のように泳げればいいと思い、水槽のガラスを撫でる。
 月夜はそんな僕に構わずその尾びれをぐいっと逸らせて、水面へとその身体を飛び上がらせた。

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