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たかが傘に、って話

昨年の10月のある雨の日、傘を取り違えられた。

20数年ぶりに自分で買った長傘だった。デザインはもちろん、柄の握り具合も、ワンタッチで開く時のシュル…シュルルスコン! というリズムも、風に強いという特徴も、全てがお気に入りの傘だった。長い傘を持って出かける機会は滅多にないこともあって、大事に大事に扱っていた。使うたびにワクワクしていた。それなのに! それなのに! ムキー! であった。

まあ、言ってみればそれだけの話なんだけど……

その雨の日、とある指導をしている講座に、私はえらそーに最後に到着した。部屋の前に据えられた傘置きの中は既に、生徒さん(シニア世代)の40本近い傘でいっぱいだった。だから、私の大事な傘はどこに置いておこうかしらとしばし考えて、傘立ての外、一番部屋の入り口に近いところに立てかけることにした。みんなとは別にしておくのが最善の策! のつもりだったのだ。

それを、先に帰った生徒さんの誰かに持って行かれた。そして、私が部屋を出た時には、傘立ての中に全く同じデザインの他人の傘が残されていた。

もちろん、最初から「これは他人のだ」と思ったわけではない。入り口に立てかけていた傘がないのには驚いたけれど、傘立ての中に同じものを見つけて、誰かが親切に入れてくれたのかな? とさえ思った。けれども、そうだ、建物のエントランスで備え付けのビニールの傘袋に入れた時、袋の先が破れてしまったから、ご丁寧に結び直したではないか。その結び目がないっ!! ということは、これは私のじゃない!

間違って持っていった人は、その違いに気づかなかったんだろうか?! そもそも傘立ての中に入っていないことをおかしいと思わなかったんだろうか?! …思わなかったんだろうなぁー。傘立ての外に置いてあった傘が真っ先に目について、あ、ワタクシの!! って思い込んだんだろうなぁー。私より年配の方々であるし、そんなものかもしれない。特に、誰かとおしゃべりしながらだったりしたら気にも留めないはずだ。なにしろ同じ商品なのだもの。

しかーし、私にとっては「違う」のである。ショックなことに、残っていた傘は使い古されたもので、持ち手の先の革は破れているし、撥水性も落ちていて、とても「同じ」とは思えない。その傘を差して駅に向かいながらも、残念な気持ちが収まらない。悔しいからまた新しいのを買ってやろうかと、電車の中でむきになって検索したけれど、そのブランドのその傘はもう販売されていないことがわかっただけだった。あーあー、無念。中途半端なところに立てかけないで、部屋の中まで持って入ればよかった!

「だったら次の時に持って行って事情を話して取り替えてもらえば?」と家人には言われたけれど、次の講座は1ヶ月後だ。名前も書いていないのに、わざわざ持って行って「あのー、私のはもっと新しかったんですけど、どなたか間違えませんでしたか?」なんてこと、言えないよ。逆だったら言えるけどね、「私のはこんなに綺麗じゃなかったです。どなたか間違えて古いのを持っていきませんでしたか?」って。そしたら女神様が出てきて金の傘をくれるかも。

ともかく、自分でも呆れるくらいのガッカリ感だった。手元に来た傘は別の雨の日にもう一度使ってみたけれど、ワクワクするどころか嫌な気分になるだけだった。

…とはいえ、雨が降らなきゃ傘のことなんか忘れている。

そして、3ヶ月が過ぎ、今日はその同じ講座の日。しかも昨日から天気予報で「明日は一日中雨」と言っていた。さあ、傘、どうしよう!?

あの傘を持っていってこっそり取り替えるとか、私の傘を持っている人を見つけて事情を話してみる…という案もチラとは浮かんだ。でも、いやいやもう、面倒だ面倒だ。娘に借りた。全く別の傘を持って出かけることにした。

教室に入るときには、案の定傘がいっぱいで、どこにどんな傘があるのか分からなかった。自分の(というか娘の)傘は、今日こそ中まで持って入った。そうして講座が終わり、別の教室を覗いたりトイレに行ったりして、さて帰ろうかと部屋の前に差し掛かったときだ。もしやと思いながら見ると、傘立てに残っている数本の傘の中に、紛れもない「私の傘」があるではないか!

おーおー、おまえ、元気でちゃーんと今も働いているんだねぇ……可愛いががってもらってるかい?

もしも私があの「他人の傘」を持って来ていれば、スパイがアタッシュケースをすり替えるみたいにして、何気なく傘を取り戻すこともできたんじゃないかというタイミングだった。

でもま、もういいや。元「自分の傘」を見て改めて諦めた。誰かわからないけど、生徒さんの中に「この人が使っていたら嫌だなぁ」という人もいないし、ちゃんと使ってもらっているならもう、その人の傘ということでいい。

一度他所の傘になったものに未練はないさ。

それに私は昨日、新しい傘をポチッたもんね。