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フィクションとノンフィクションー欅坂46「僕たちの嘘と真実」完全版

ブログ移行を本格的に行うかはさておき、今回はこちらで一度描いてみたいと思います。
noteご愛用の皆様にははじめましてなので、簡単に自己紹介を…

川島雅隆と申します。

欅坂46を結成当時から追いかける、永遠の佐藤詩織推し。
もちろん、そんな欅の木から分かれた枝葉であるひらがなけやき、現在の日向坂46も推しています!箱推し寄りの富田鈴花推しです。
普段はTwitterとはてなブログに常駐しておりますが、ここからの可能性の広がりを考えて、note版も記していこうかなと…一応、ブログ移行も考えております。

改めて、宜しくお願い致します。

「僕たちの嘘と真実」、映画館で観た本編と、LIVE映像&前夜祭の様子を収録したDISC2、メンバーのロングインタビュー収録のDISC3、そして…観る者に覚悟を求めてるOUTTAKE収録のDISC4と、全部を通しで観ると合計で6時間強になるという大作でした。
でもこれは、例えば本編だけでも円盤化した意味が薄れるし、かといってOUTTAKEだけ観るのも何か違う気がして、結局通しで全部観ることにしました。

ということで、ここからはネタバレも含みます。ネタバレが苦手な方は、ここでnoteをお閉じになる方が宜しいかと思われます。



芸能というのは、発信する側があり、それを観たいと思う側がいて、初めてギブアンドテイクが成立するものだと思います。
これは自論ですが、そうなると演者の最大の目的は自分のパフォーマンスを誰かに見てもらうことに尽きる、そう思っています。
もちろん、演者がその感性を最大限にまで研ぎ澄まし、結果として自らの成長に繋げるためにパフォーマンスをする、その目的を否定するつもりはありません。ただ、そのパフォーマンスを見た人に、お金を払いたいと思ってもらわなければ、ジョブとしては成立しません。その意味で彼女たちはプロであり、自分たちのパフォーマンスを見てもらって収入を得ている以上、自分のためにパフォーマンスをしている、だけでは済まない側面があることに異論は少ないと思います。

そうすると、この「プロフェッショナル」とは一体何か、というのを、彼女たちを観るにつけいつも考えさせられるのです。

欅坂46というコンテンツが、初めから他のアイドルグループと一線を画し、誰かの心に訴えかける、その人の心に刺さる、その人の心に棲みつく、そしてその人の心に寄り添う、そんなグループを目指したのかどうかは定かではありません。

ただ、途中からそれが彼女たちの生きる道になってしまった。

誰かの心に棲みつくためには、演者が中途半端で達成されるはずがない。全力、という言葉は陳腐なように聞こえますが、本当の意味での全力を彼女たちには見せられた思いがしていたし、だからこそ少なくとも私の心には刺さった。棲みついた。
そして間違いなく言えることは、私のような人がこの世にごまんといた。だから欅坂46があれだけ話題性を掻っ攫うグループになれた、ということ。それは自信を持って言えます。

ただ、そういう本当の意味での「全力」は彼女たちの身体を無事に済ませるはずがありません。
楽曲を届ける、ということを真に達成しようとするならば、何かを犠牲にしなければならない。それが彼女たちの身体であり、もしかしたら彼女たちの心だったのかもしれない、そう思うと居た堪れなくなります。

なぜなら、無責任な私たちは、それを望んでいるから。

楽曲を届ける、という彼女たちの願いが達成された、ということは、届けられた私たちは次の欲求が生まれることになります。もっと激しく心を動かされたい、そんな無責任な、ある意味悪魔的な欲求が生まれてきてしまいます。

ところが演者である彼女たちにそれができる力があるのか否か。
能力的なことではなく、体力的に、精神的にそれが可能かどうか、それは誰にもわからない。そんな危うさすら、無責任かつ安全な場所にいる私たちが残酷にも楽しんでいたような気がします。

もちろん、芸能と私たちの関係、とはそんなものかもしれない。そう思うこともあります。だからそれが間違いだという気はありません。
でも彼女たちのファンだと言いながら、一体彼女たちの何を応援し、彼女たちをどういう存在として自分の中で認識していたのかなと、少し振り返ってみたくもなりました。

キャプテンである菅井友香さんが、かつて言っていたことがあります。
「欅坂は全員が魂を削って踊る」
彼女たちが全力であればあるほど、楽曲や世界観を届けてもらっている私たちはそれに慣れてしまい、無意識にその上を要求する。それを彼女たちが張っていたアンテナでキャッチし、その要求に応えようとする。

こんなことを繰り返していたら、彼女たちの体が悲鳴をあげるのは当然のことです。
彼女たちが体調を崩したことを知って、心配している一方で、早く治して次のパフォーマンスを見せてほしい、という欲求がある。

ずっと気になっていたのは、この映画のタイトル、「僕たちの嘘と真実」というこの「嘘」とはいったい何なんだろうと。
高橋監督はその答えに近いものを仰っていましたが、それとは別に。
5年間ずっと彼女たちを見てきて、そしてこの映画を観て、答えとは言わずもそれに近いものとして自分の出した結論は何かというと。

どんなに体調が悪くても、精神的に追い詰められていても、そこに立ち続けていた彼女たちの姿。体調が良さそうに見えていてもそれはリアルではない。そこにフィクションがあった、と考えました。
それはフィクションでなければ成立しない。
そしてもし、それを本当に全うしていたのなら、それをプロと言わずして何と言うのでしょうか。

その意味で、そんな「見た目」すらフィクションにしなかったのは、平手友梨奈さんでした。彼女の体の痛み、さらに言えば心の痛みもあったかもしれない。その痛みは、私たちに共感できるものではありません。彼女にしかわからない。
全力でパフォーマンスしたくても、体が動いてくれない、とすれば。
フィクションにしなかった、というより、できなかったと言う方が正しいかもしれません。

2017紅白。
あの不協和音。
あのとき、確かに私たちは心配しました。
しましたが、ならばどこまで彼女たちの心や身体を労ることに尽くしたか。
しばらくしてみんなが無事だという写真が掲載されて、それで考えたことは「またあのパフォーマンスが見れる!そのためにもゆっくり休んで」ではなかったか。
演者としての彼女たちは応援している。でも一人の女性として、一人の人間としての彼女たちを、彼女たち一人ひとりの人生を、私たちは応援していると言えるのか。

映画の意図とは多分違うのだろうと思いますが、それが私の中にある「嘘と真実」。欅坂46というグループならびにメンバーに対する強く苦しい思いとして今も残っていることなのです。
あのとき、彼女たちのことを一人の人間として心配するのなら、もうあんなパフォーマンスはしなくていいというべきではなかったのかと。

私たちが目に見えていた彼女たちの存在、そしてパフォーマンス。そこにフィクションはなかったと思います。少なくとも私はそう信じたい。
なぜなら、私たちが彼女たちに対する思いを知っているのかいないのか、いずれにせよ彼女たちがその歩みを止めることはなかったからです。

そうなると、プロとは一体何なのか、という思いがまた頭をもたげてきます。

よく言われるのは、プロとは常にクオリティの高いものを同じように提供できることであり、それができないのはプロ失格だということ。
欅坂が、というよりよくそれは平手友梨奈さん個人に言われたことですが、同じクオリティでパフォーマンスができないのはプロではないとか、体力がないのはプロとしてどうなのかとか。

でもそのときからずっと感じていたことですが、プロって果たしてそんなものなのだろうかとも思います。

安定して一つのコンテンツを提供できるのもそりゃプロでしょう。でも、激烈に人の心を動かす、そしてそのパフォーマンスにお金を払いたいと思わせる、それが確かに安定はしていなくても、その人を見たいと思わせる、それが果たしてプロではないと言えるのでしょうか。私はそうは思いません。
いくら体力があろうが精神的に強かろうが、曲の強大な世界に飲み込まれそうになるギリギリのところで戦い、それでもその中の激しい思いを届けようとする姿勢で臨めば、終わったら倒れそうになるに決まってます。それを体力がないとか、だからプロ失格なんて何故言えるのでしょうか。

アンチが表面上だけで人を叩く。そんなのは今に始まったことではありません。ただその一方で、私たち応援する側も、結局は表面上の彼女たちを見てそれを支持し、その裏側にあるものに思いを馳せることがあったのかと言われれば、なかなか自信を持って首を縦に振れないのではないでしょうか。
そして話が戻りますが、応援しているようで実はその体に負担のかかりすぎるパフォーマンスで心を揺り動かされたいと願う私たちは、ある意味アンチより残酷なのかもしれません。

そして、この映画の数時間も、欅坂46の5年間の中のほんの一瞬に過ぎません。
「真実」と言えるほどの時間を見たわけではない。
もとより、一つの事象であったとしても、主体を誰にするかによってその捉え方は大きく変わることもあるので、「真実」はそこに関わる人の数だけある、と言っても差し支えないかもしれません。


欅坂46は、確かにそこにあった。
全力で、本当に体も魂も削った彼女たちがそこにいた。
そんな欅坂46は、櫻坂46に生まれ変わった。

欅坂をずっと見てきた私としては、こちらに寄り添おうとしてくれた彼女たちのことを真に考えられる人ではなかった。
私が櫻坂46をこれからもずっと見ていきたいと思っている源泉には、そんな欅坂への贖罪の気持ちがあるのかもしれません。



OUTTAKEまで観て、そんな気持ちになった一日でした。



長文失礼しました。






noteの中でも、櫻坂46・日向坂46に特化した内容ですので、特に二つのグループの推し活を経て、皆様に文章で還元できるよう努めてまいります! よろしければサポートをお願い致します。