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第2章 奥伊勢物語の始まり

大内山の名称と皇居の関係

<現場監督>

三重県には伊勢神宮がある。南樺太と千島列島をロシアに取られてしまったので伊勢神宮は今の日本国土の丁度真ん中くらいに鎮座している神様のお住まいということになる。祭神は天照大神だから、北は択促島から南は与那国島まで暖かく見守ってくれている神様である。この伊勢市の住民が奥伊勢と呼ぶ地域がある。

伊勢神宮の前を流れる川は五十鈴川だが、これはごく小さい川で、そのすぐ北側を伊勢湾に流れ込んでいる大きな川が宮川である。太平洋から来る湿った空気が大台ヶ原や高見山地にぶつかって降り注ぐ雨を集めて流れ下る清流、日経新聞が毎年発表する清流ランキングでは1位とか2位とか、悪くても3位に入っている。大学2年の春に学友と大杉谷下りをしたが、その大杉峡谷もこの宮川の源流近くにある。

宮川にはいくつかの支流があり、その1つが大内山川と言う。宮川本流より南側の太平洋河側により近いところから源流が始まって、梅ケ谷、大内山、崎、柏野、阿曽、滝原という地域を流れ下って、大台町で宮川本流と合流する。

梅ケ谷も大内山も旧国鉄時代からの駅名だが、明治天皇ご贔屓の名横綱や昭和天皇ご贔屓の大関の名前でもあるから、皆知っている駅だろうと思っていたが、友人は誰も知らないと言う。

この大内山川一帯が奥伊勢と呼ばれている地域とみて、ほぼ間違いない。滝原にある滝原宮と滝原並宮は伊勢神宮の内宮(皇大神宮)の別宮とされ、内宮と同じように式年遷宮が行われている。地元の人は神宮内の大杉は1本1千万円はすると自慢する。そんな大杉が神宮内に何本もあり、訪れる人も多い。

我々が購入した山林地はこの大内山川の源流に近い、南北に細長い2000坪で、1キロ下流に初めての人家がポツンと建っている。購入した土地は山林地と言っても、土地の西側には立派な6m幅の舗装道路があり、しかもその県道は購入した山林地の北端の橋のところで県道としては終点となって、あとはただの林道らしい。その林道を上流に行くと犬戻峡という傍道への入り口がある。

村の人にその由来を聞くと、谷の深さに驚いて犬さえも戻って来るからだ、という。その傍道に入らず、更に上流に上がって行くと、やがて山林の中の小さい小川に変わって、そこらあたりが源流になる。林道も雑木に覆われて消えている。この林道が拡げられて、池の谷峠という峠を越えたところから南に反転し、海に面した紀伊長島に辿り着くはずだったが、紀勢自動車道の開設決定で取り止めになったのだそうだ。車の通行は1日中ほとんどない。大型の単車がたまに来るが、直ぐに引き返して来る。

若い頃、手足と腰に保護道具を付け、ローラースケートで何かを争う映画を見て、それを真似したかった。この舗装道路はそれに最適の条件なのだ。しかし失われた青春は二度と取り戻せないので、そうした悪あがきはしない。「現場監督と監督補佐の奥伊勢物語」はうこうして始まったのである。

ところで「大内山」という名称は戦前は皇居を意味していたらしい。ウィキペディアの解説にあった。その記事を見て以来、大内山村の印象は更に良くなった。「いい地名なんです」と知人には自慢している。


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