寂しさの理由、海の底

 忘れてしまったことがいくつもある。
 それらが大切なのかそうでなかったのかということをわたしはひとつも思い出せなかった。忘却の範囲は広すぎる。そして無差別だった。そしてもしかすると、思い出せないという実感だけが、わたしがなにかを忘れているということを支えているのかもしれなった。なぜなら、わたしがなにかを思い出せないと感じているいまこのときでさえも、なにかを忘れているということを証明できる物的証拠はなにひとつとして存在しなかった。

「どうしていつも、なにかを探しているんだろう」

 このような理由なき空虚を自分以外の誰かに投影しているところもある。その相手のひとりが、いつも理科準備室の一角で物憂げな顔をして授業をサボタージュしている有栖愛紗だった。音にすればアリス・アイシャという、とても日本人とは思えないが、さりとてどこかの国の人間というには響きがおかしすぎる女子は、わたしと同じ学年で、ほとんど同等の学力を持ち、そして同等の会話ができる数少ない人間だった。こうした表現をすると、わたしと愛紗はさぞかし勉強ができるのだろうとか、レベルの高い会話をしているのだろうと他人には思われるかもしれない。でも、そんなことはない。
 それはたとえば、こんな具合だ。

「どうしていつも、わたしはなにかを探しているんだろう」
 愛紗がくせのある前髪をくるくると指先に巻きつけている。彼女の肌は白く、それ以外の細かい部分はだいたい黒かった。髪の毛と瞳、そして爪。爪がどうして黒いのか。それは爪にマジックの黒が塗りたくられているからだ。制服の色はおおむね紺がベースになっている。愛紗の肌の白は目立つ。それ以外の黒は夜を思わせる制服の色に吸われていく。かろうじて、彼女の瞳という黒い★だけが輝いている。
「忘れ物がひどすぎるからじゃないかな」
 そう答えたわたしは、脱色からずいぶんと時間が経ってしまってプリン状になっている髪の毛に櫛を通している。
 愛紗の忘れ物はひどい。忘れ物という概念を人間に覚え込ませるために存在するのではないかというほどにその頻度は度が過ぎている。宿題はおおむね提出しない。課題も提出しない。ついでに借りた本も返さない。図書館出禁最速記録は愛紗が保持している。
「そうかもしれない」
 愛紗はそう言って笑った。
「わたしの名前も覚えていないもんね」
「それは忘れ物じゃないよ」
「最初から覚えていないから?」
「てへへ。そういうことやね」
「あんた。さてはバカだね」
「じゃなきゃ、ここにいないと思わない?」
「同感」
「きみも。さてはバカだね」
「同意」

 そういうわけで、わたしと愛紗はどうしようもないバカだった。

 忘れてしまったことがいくつもある。
 それはたとえば、わたしの名前。


潮騒

 それが本当の重要なものなのか、それともそうでもないものだったのかどうかさえ、わたしは思い出すことができなかった。忘却の範囲は広く、その対象は無差別だ。それはもしかすると、法則性が見つからないから無差別と感じているだけで、本当は自分自身の、なにか厳しい現実を忘れるためにだけ存在する、偽りの無差別であるかもしれなかった。だって、わたしがなにか致命的な忘れ物をしていると感じているこのときでさえも、自分の心には真剣味というものが欠けていた。そう感じてしまっていることが、まさしくわたしが、本当に大切なものがなんだったのかを覚えていない証明になっているのではないかと思えたりする。

「寂しさを鳴らす方法を知ってる?」
 それは古ぼけた理科準備室、空色のハードカバーを開いて、その本の一ページを引きちぎる女子がいた。罰当たりだった。それ以上に、器物損壊罪というやつだと思われた。それは学校の備品だった。見るものが見れば、愛紗の背中を蹴り飛ばしていると思われた。そういうわけだから、彼女はついさっき中身を読んだと思われるニワカ知識で、本のページを引きちぎった。
 本を引き裂くと潮騒のような音がする。
 そうやって、寂しさは鳴る。
 ひとが鳴らす。
「寂しさって、人間の考えたものなんだよな」
 わたしがそう言う。カラメルが広がりすぎて、とてもとてもプリンなんていえなくなった金髪のなれのはて。そいつの先っぽにある卵と砂糖と、他になんかこう、なんだ、まあよくわからないけど材料を適当にぶちこんで固めたお菓子だ。そいつの名前を使って形容した髪の毛を、指先でくるくると巻きとっていく。誰かの真似だ。海の雫を深いところにいざなう渦だ。
「なんだそれ。ウサギって寂しがりじゃん。人間がそう思ってるだけなのでは。みんな寂しいんだよ。だから子供を作る。だから泣きわめく。だけど残念ながらうまいこと寂しい鳴き声を出せない存在がこうするのである」
 愛紗はそう言って、いつかえらい文学賞を与えられたとされるハードカバーの本の一ページを、またしても引き裂いていくのだった。わたしはゆっくりとその波の中にさらわれて、自分の作った渦の中に巻き込まれてしまう。
 海の音がする。
 もしそれが寂しさの表現なのであるとすれば、わたしたちが海に帰りたいと願うのは、きっと地球が寂しがっているからなんだ。

 この世には忘れてはならないことがある。それはたとえば、自分の生まれた日付。それはたとえば、自分を愛してくれたひとのこと。それはたとえば、自分がこの世でいちばんに好きだと思った相手のこと。
 だけれど、そうした取り決めは、結局は自分がかくあるべしと思っているだけのことに過ぎない。記憶が物理現象だとすれば、それはいつかきっと壊れるものだ。
 記憶は壊れる。
 どれだけ大切だと思っていたとしても、その時は必ず来る。
 死ぬとか、怪我をしたとか、そういう大きな問題によって引き起こされるような事象じゃない。
 それはなんでもないようなとき、とつぜんに襲ってくるものなんだ。
 知ったところで逃げることはできない。
 忘却はわたしをつけねらっている。いつでも、どこでも。脱色をすることができなくなった髪の毛の先端、いつまでも切ることができないでいる過去の末端部分を掴んで、水たまりの中に引きずりこもうとその機会をうかがっている。
 ……なんてね。
 そういうふうに考えていないと、そんなふうに理屈をつけないと割り切れないほどに、わたしは忘れてはならないものを忘れてしまったんだよ。


海面

「どうしていつも、なにも探さずにいられるの?」
 あるアリスの問いかけに、わたしはどう答えたものかと迷った。真っ黒な瞳、それを囲む真っ黒な川。白い肌という夜空の中でそれは輝く。紺の海が広がっている。愛紗の制服はよれていた。はだけたシャツの内側に、ほんのわずかに白い夜が映り込んでいた。
「そりゃ、なにも探していないからだよ」
 わたしにはこの世界に生きている間に見つけたいもの、という、人間がそこそこの人生を送っているうちにどこかでちらっと見つけそうなものが存在していなかった。約十五年ほどをだらだらと過ごしているうちに、なんかよくわからないけど行くあてというものが概ね絞られてしまったので、親が学歴をどうたらこうたら言うのに合わせて、ああ、人間ってやっぱり誰かが作った社会通念というやつに従って生きていくしかないんでヤンスねえ、とかなんとか。漫画を読みながら適当なことを考えて生きていたから、できなかったことがあるわけだよ。勉強というやつがまるでできなかったということなんだよ。成績を伸ばすたったひとつの方法という動画を見てまずチャンネル登録を押したあと、それは勉強することなんですとか言われて、最速でチャンネル登録を解除するような人間ができるわきゃねえんだよ。だから消去法で選ばれた道を進むしかなかった。
 それでもわたしには幸運があって、強制的に塾に入れられてそこでアリスアイシャっていう名前なんだかハンドルネームなんだか芸名なんだかわからない、とても日本人とは思えない響きを持った、色々黒くて色々白い女の子と出会った。
 やればできる子覚醒コースと名づけられた強制勉強合宿で促成栽培されたわたしたちは、ギリギリで公立の高校に通うことができた。
 で、高校で見事な落ちこぼれとして日々を過ごしている。
「なるほどね。じゃあわたしもなにも探さないようにしたら、なにも探さずにいられるのかな」
「理論上は、そう」
「理論上って、なんか頭がいい感じがするよね」
「だいたい、理論上って言葉を使うやつは、説明を聞いてるやつより頭が悪いもんだ」
「ってことは、さてはきみ、バカだね?」
「よくごぞんじで」
 うん。バカなのさ。根本的な部分がね。

 海に行きたい。
 なんだか、そう思った。


月が映る水面

 だから、その忘れてしまったことをどうにか思い出そうと思っている。いつかアリスアイシャが言っていた。彼女の故郷は海の近くにあって、家にいると潮騒の音がひどく耳に残ったって。
 愛紗は海が嫌いだった。海からひびく音はいつも耳障りだった。それは訴えていた。あまりにも普遍的でありながら、だれひとりとして克服することができずにいるもの。自分だけではどうすることもできないひとつの感情。それを想起させる空気の震えを許さなかった。それが聞こえる限り眠れないんだって、愛紗はそう言っていた。

「だけど変だよね」
 わたしの胸に耳を当てながら愛紗は言った。
「ここに触れていると、あなたの心臓に触れていると、なんだか海が呼んでいる気がしてくる」
「貝殻に耳を当てると、波の音がするって言うね」
「うん。それと同じ現象がいま起きていると思われる」
「まあわたしの胸はごらんのとおりへこんでおりますので、あまり貝殻感はありませんけれども」
「そうかな。隠せると思うよ。その辺で拾ったやつで」
「いらん。ヤドカリさんに融通して差し上げろ」
「そうだね。じゃあ、手で隠すことにする」
 そうやって、他のだれにも、いまや母親にさえ見せるのが恥ずかしいと思われる胸の先端に愛紗がてのひらをかぶせる。頭の悪いやつらが、どうしても暇で暇で仕方がなく、さりとて勉強なる自分磨きをするのも億劫な時に手を出す生体ドラッグ生成運動、別名脳内麻薬精製スポーツの一過程がこなされる。
「聞こえる。もしかして、きみ、寂しいのかい?」
「寂しくて悪いか」
「そうじゃない。いるじゃない。ここに。あたしが。それでも寂しい?」
「……そんなことないかな」
「じゃあ鎮めたまえよ、その音を」
「やれるならやってる」
 くだらないやり取りがどうしようもなく愛おしくなるのは、そこに相手の体温があるからなのだと思う。体温が相手の実在を信じさせるから。愛紗がそこにいると思うから。そして、こんなことを繰り返したからこそ思い出せる彼女の体温だけが、わたしと愛紗を明確に結びつけているんじゃないかと思ったりする。
「さてはきみ、あたしに本気?」
 そう問いかけた彼女に、わたしは……
 ……。
 どうしたのか、どうしても思い出せない。
 わかっているのは、紺色の制服という海のうえに浮かんでいる月の色は、とても白かったということだ。現実の空で輝く月ほどの光はなく、どこか不健康さを感じさせる青みをたたえた青だった。


きみが沈む

 有栖愛紗の得意技は忘れ物。
 忘れ物をやるのに必要な特質は、なにかを忘れるということ。
 あまりにも当たり前すぎて、なにも説明していないのといっしょだ。
 でも、そういうことなんだよ。
 なにかを忘れるということは、だれにも説明できない感覚を抱くのとほとんど同じことだから。
 だから、わたしのことを忘れてしまったあたしは、やっぱり忘れ物の天才だと言えるのだと思う。
 高校生だったころ、アリスアイシャは理科準備室に入り浸っていた。そこは演劇部の部室になっていて、だからってわけでもないけどあたしもあの子も合鍵を持っていた。もちろん非公式なものだ。そんなものを持っていたら先生に怒られるどころじゃ済まないからね。
 あたしたちはそこで、かけがえのない恋人と毎日のように会っていた。そして時に、二度と忘れられないような、いまのご時世だったら当たり前っちゃ当たり前的な、肌と肌の接触を経験したりなんかした。
 そんなふうにして、三年間を棒に振って、とってもとっても楽しかった。
 そんな日々を、夜の海辺を歩きながら思い出している。
 だけど、どうしても思い出せないことがある。
 どうしようもなく、思い出せないことがある。
 そのことがいつまでもあたしの髪の毛をひっぱっている。

 自分の髪の毛の一部を脱色して、彼女の髪にそっくりなプリンの綱にして握る。そして夜の海に向かって走った。

 ねえ、あなたの名前はなんだったっけ?
 忘れてしまったあたしを叱って。
 会いたい。
 いまはもうどこにもいないあなたに。

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