Kとサイゼのミラノ風ドリア、

本文

 その時代、サイゼのミラノ風ドリアは三〇〇円だった。それぞれに注文した食事を囲んで、ぷらいべったーに突っ込んだ小説を読んでもらっている。その小説の長さはボクの体調に依存していて、ときに長く、ときに短かった。だけどそれは決まって七日に一回、Kの品質チェックに回された。
 Kは夏目漱石のファンだし、梶井基次郎のファンだ。吾輩という名前の猫を飼っていてそれが二代目、毎月第二土曜日にイトーヨーカドーの書店に檸檬を置いてきて爆破する連続妄想爆弾魔でもある。Kとして彼女が持っていないのは男という性別と文才、そして詩情だった。彼女は自分で書けない小説のアイディアをボクに押しつけて書かせている。ボクも女なんだがおまえ本当にそれでいいのか。しかし彼女はそれでいいらしかった。Kは作品を読み終えると決まって次のセリフを吐く。「オレのアイディアの1%も活かせていないな」これが一音たりとも変わらずに発声される。ロン、八〇〇〇ってところだな。そして彼女はそっと五円玉を一枚差し出してくる。
「駄文にもご縁があるということだ。次回作に期待するよ、ハヤカワ」
 Kにはこれまでも色々とやらされたことがある。なかでも〈贋作吾輩は猫である〉を書かされたときが一番閉口した。内田百閒の書いた小説のアイディアをそのまま持ってくるんじゃない。彼女はその作品のことを知らないようだった。Kは夏目漱石と梶井基次郎のファンだったがそれ以外の作家をすべて無視した。古今東西ゲームで芥川賞作家を題材にすると初手で確実に勝てるので、その読まないっぷりは徹底されていた。
「だってさ」と彼女はいう。「夏目漱石と梶井基次郎ですべての小説は完成していて、それ以外は読む必要なんてないんだよ」
「んなわけあるか。ヘミングウェイを読め」
 ボクはヘミングウェイの大ファンで、そこから派生してハードボイルド系の小説をよく読んでいる。そういう意味では純文学的なものから俗っぽいものまでなんでも読んでいるといえばそう。だから物書き適性について語るならボクの方がKよりまだマシかもしれない。けどま、五十歩百歩というところだろう。ボクはシェイクスピアの著作の半分も読んでいない。
 その時代、サイゼのミラノ風ドリアは三〇〇円とリーズナブルで、ボクたちはそれを食べるのになんら不自由を感じていなかった。宗教二世だとか性的少数者とか戦争とか、そういう物事とも無縁だった。お互いにそれっぽい彼氏とつきあって結婚の約束をとりつけているし、まあまあの会社でちょっとした給金をもらいながら社会生活を営んでいる。ボクらに共通していたのはこのままゆるりとすべてが滅びるまで生きていくという決意で、子供は絶対に作らないというルールだった。パートナーもそれを承知している。この世の未来が暗いというのなら子供なんて作るべきじゃないし、もしも子供たちが自発的にこの世界に生まれてきたいと願うならば、ボクらはいつしか子作り本能に揺さぶられて気がついたら妊娠しているはずだった。
「今回はよかったな」とK。
「突然どしたよ。なんか変な小説でも読んだか」
「そんなとこだ。子供ができた」
 ボクは注文するミラノ風ドリアにチーズを足すことにした。四〇〇円になる。
「まいったよな、ハヤカワ」とKがいった。「それがいつなのかよく覚えてないんだが、どうもそのころのオレはめちゃくちゃに発情していたらしい。その勢いでやりまくった結果がこれだ。備えなんてしてなかったからな。向こうもそのリスクは承知のうえでやったんだからお互いさまだ。人間ってのは動物なんだとよくわかったよ」
 Kはいつもどおりの記号を記載する。ボクはバッグのなかから五円玉の束を取り出す。
「いつかこんなときが来るんじゃないかと思っていたよ」
 六〇枚でひとつを為すそれをKに押しつけた。こんなものがいくつもバッグに入っている。全部出した。ちょうど十束あった。それがボクとKのつきあってきた歴史だ。
「仕事やめるの? それとも育休?」
「育休のつもりだ。それを社会がずっと許容しつづけるかどうかは知らんがな。一度やらかした身体だ。二度目や三度目もあるかもしれん。そういうことを助けつづけられるほどいまの会社が強いというふうには考えていない」
 そうかもな。まったくそのとおりだとボクは思った。
「今日までだな、K」とボクはいって、店員に注文の紙をわたした。「今日までにしよう。ボクらは別々の道を歩むべきだ」
「そうだろうな、ハヤカワ」
「それはもう旧姓だよ、K」とボクは笑った。「いまはサトウをやってんだ」
 Kはしめっぽい顔をしてやってきたミラノ風ドリアを食べた。
「聖書でも読みなよ。世界的ベストセラーだ。そこに救いが書いてあるかもしれない」
「そうする」とKはいった。

 その夜が終わったのち、ボクはKの連続妄想爆弾魔がつづいているか確認しにいったことがある。そしてベストセラーの棚にぽつんと置かれた檸檬を見て、たかが子供ができたくらいで仲違いしたのは失敗だったかもなと思った。でも、それが人生だ。ボクは檸檬を拾いあげると今日もミラノ風ドリアを食べにいく。その時代、サイゼのミラノ風ドリアの値段は三〇〇円で、ボクらはそれを食べるのに不自由しないほどに幸福だった。

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