BFC4落選展感想 36 - 40

はじめに

 くりかえしとなります。
「#BFC4落選展」のタグがつけられた作品にのみ感想をつけていきます。それ以外の作品はどのような存在であれ無視します。読まれたいと願うブンゲイファイターの心にのみ正対していきたいからです。
 本稿はその性質上、ふんだんにネタバレを含みます。ですので、まずは落選展作品の内容をよく読んでから目を通していただけるとうれしいです。それが作者の方々のためにもなると思いますので。




しみ「風船」

 誤読を恐れずにいう。誘拐された少年がメンタリストに導かれて犯人を思い出させられる話だ。もっとも、ミステリとかサスペンスとして読むような作品というわけではなく、その過程から発生する効果に比重が置かれている。
 意識的に情報を断片化しているため、この読みが正しいのかどうか自信が持てない。が、会話シーンでわざとらしい台詞が使われていることから、中枢UXは情動操作側にあり、状況を鮮明にしていくという行為そのものが下準備として使われている。だから作品全体の作り物感が強い。もっとも、主人公(だと私は認定している)に語りかける人物がそもそも印象操作をしようとしていると感じられるため、そのわざとらしさは作品としての方向性を先鋭化するために選択された技法だろう、と好意的な見方をしてもよさそうだ。
 少年に寄り添っているカメラにも同じことが言える。印象を操作しようとする仕掛けがあちこちに見られる、ように感じさせられる。
 ま、だからだが、窮屈な作品だな。それは文章がぎゅうぎゅう詰めにされていることからもそう感じる。同じような文字の壁を形成する作品と比べても、この作品は閉塞感に満ちている。この作品にとってそれは悪いことではないのだろうが、奥行きだったり広がりだったりとはあまり縁がない。心をいつまでも引きずるようなものではなく、ほんの一瞬だけ情をなでて様子をうかがってくるだけだ。私は突き飛ばす。

成仏「留めの海」

 ヴァーチャルと無機の香りが強い作品で、どんな内容なのか読み解こうとすることが難しい。並列の記述は過剰で情報は断片化加工されており、おのおのの意味の接続が希薄であるためただ通読するだけでも骨が折れる。表現を見る限りこれはSF型アプローチで書かれている作品と読めるので、言葉遣いもそちらの方を向いており、純文芸的に読もうとする場合は自分の所属領域を問われるような事態に陥るだろう。
 カメラの位置が子供のすぐそばにあるのに、その語り口は子供という印象を与えない。まあ三人称なんてみんなそんなものだからな。というのはちょっと乱暴なので理屈を考えてみる。
 これは生身というアナログの状態からある特定のデジタルな状態に向かおうとしている過程を描いている。そう考えてみると記述の無機性が説明できるし、このカメラの持ち手がデジタルに物事を観察している主体として想定できるようになる。だからここに書かれている世界はアナログとデジタルの二つに分けて構成されているということになり「肉の身体」とわざわざ子供に注釈がされている通りに、アナログであるものは肉という不完全体に属し、デジタルであるのは完成した現象、という風に物事をわけて考えることができる。
 この補助線を引いたうえで作品内の主人公の感情の焦点を探すと「焦り」と「老い」がキーワードになることがわかる。主人公は「若さ」に美しさを見いだしており、それゆえにすこしでも早く現在の状態で自分が成ることを望んでいるのではないかと。
 一生懸命読まないと意味がわからない時点で直感的になにかが動くということがない。読解は文芸の楽しみ方のひとつだが、それを強制されるいわれはない。難しい作品というのはそれだけ限定的な環境でしか生きられないということだ。

ときのき「夜語り」

 あ、これもうだめだわ。好き。あんた、なかなかやるね。
 即興小説を書いて読み聞かせるように、マジで意外性のないものが淡々と展開されている。初読の時点で「こいつら花束みたいな恋してやがるな」と思ったので、その時点でこの作品と自分との距離が一気に詰まった。そっから先はもうずっとおもしろいんで、もはや客観的評価してますみたいな面はできなくなった。なお「花束みてえな恋でもしてやがれ」というサブカル・ロックな暴言を私は好いている。
 この話はサブカル的な視点でサブカル的に楽しめという世界が描かれている。テレビとか見てるからこそっていう感じの。だけど変に狭い世界でのことというより、もっと身近にある世界でのあるある話だから現実の二次創作として楽しめる。()内の反応もリアリティがあって大変よい。雪風とこういうことすると楽しそうだな。この作品にはいい提案をしてもらった。5点。
 落選展読んででよかったと思うのは、こういう作品にぶち当たることがあるからだな。強いて欠点をあげればアイディア一点突破型というとこだが、この作品は六枚なんで、その六枚分楽しませてくれれば私はいい。趣旨がわかると二周しても楽しいしな。私は盛大に歓迎する。同じことを二度しろなどというつもりは一切ないが、この作品からは文芸のフォースを感じ取った。だからフォースと共にあらんことを。

クラン「風の弔い」

 掌編として読むにはなにを楽しめばいいのかわからない作品。冒頭の風景描写がどんな効果を狙ったものなのか二回読んでもわからず、作品の主題がなんなのかということも理解できなかった。そういう人間が読んでいるのだということを念頭において次の文章は読んで欲しい。
 最初の一枚目の時点で、この作品はブンゲイしようとしてブンゲイしている作品なのではという疑問を抱いた。各文章がどこにどう機能し、どんなUXを形成するのか。その正解の読解というものを形成するより前に文章で芸をすることに主軸が置かれている。作品内を貫く物語のログラインもあやふやで、どこか場当たり的に物語が進行していく。そしてそういう作品こそがブンゲイの在り方なのだ、とこの作品自体が訴えかけてきている気さえした。こういう作品に対してはBFC怪光線をぶっ放したくなる。だがあの技は人体への影響が大きいのでそうバンバン撃てるものではない。
 自分の歌を歌えばいいんだよ。そう岡本太郎もいっていた。
 私はこの作品の中で猫ロボ同士が干渉しているのを主人公が助けてあげるシーンが良いと思った。こういう視点があるのならわざわざこんな僻地のブンゲイ観にアジャストしていこうとする必要なんてないと思う。

 BFCと全然関係ないが連載500万字突破してるとか怪物の域。さなコン2とかのときも思ったが、ちょっと見る場所を変えると世の中にはとんでもないひとが存外いるもんだと気づかされる。こうした体験を大切にしていきたいし、努力を続けみずからを研ぎ続けるひとにはささやかながら応援の祈りを捧げていく。それがいつかきっと自分自身に戻ってくるのを期待しているのかもしれないけどね。

ふじたま「鬱金香(チューリップ)本位」

 典型的なウェルメイド嘘歴史掌編だ。小説としてひとつだけ大嘘を吐き、それ以外は特になにもしない。話はその嘘によって変更されたリアリティラインに従って展開していく。この作品は素直におもしろいといえるタイプだ。秀才型の作品として分類して間違いない。上品で教科書的な作品を作りたいと願うときは、この作品の真似をしてみると実力をつけることができるだろう。既定の枚数の中でバランスよく小説を仕上げるというのは文芸力が高くないとできない。自分に地力が足りないと感じるとき、こういう作品を見て学びを得ないとダメだな、と思わせてくれる。ありがたい。
 褒めるだけ褒めておいてあとで落とすスタイルになるが、この作品の限界は「小説のお手本」に従って小説を書いているところにある。だから私がこの作品に対して抱く評価は中央値だ。文芸雑誌に何食わぬ顔で載っている。そういうタイプの作品で、自分も小説を書きたいというような火を与えてはくれない。うらやましいが、うらやましくない。
 このほんわか感情をわかってくれる人を募集中です。


 本稿は以上です。
 お読みいただきましてありがとうございました。

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