BFC4落選展感想 31 - 35

はじめに

 くりかえしとなります。
「#BFC4落選展」のタグがつけられた作品にのみ感想をつけていきます。それ以外の作品はどのような存在であれ無視します。読まれたいと願うブンゲイファイターの心にのみ正対していきたいからです。
 本稿はその性質上、ふんだんにネタバレを含みます。ですので、まずは落選展作品の内容をよく読んでから目を通していただけるとうれしいです。それが作者の方々のためにもなると思いますので。




門間紅雨「マウント・ガール」

 不条理な状況を利用しながら人間の感情を表現しようとしているのだと思ったが、それらをアリとして外部から観察することで相対化しようとしている。SFという感じだな。最初の主人公たちがアリとして完全に制御されているかについては疑問が残る。明らかに人間として描かれており別の生物としては読めない。前半部と結末部の分断具合がおおきくてややナンセンスに感じさせる部分があった。
 そういうのを些末事として忘れて、社会に生きる働きアリを外部から研究者たちが好き勝手に、かつ軽々しく分析しているという姿にアイロニーを感じた方がSF的な読み味になる。
 理屈はつけてみたが、初見としては世にも奇妙な風のログラインがあまりに強く、切れ味や読み応えという部分については物足りない。読者のロジックをねじ伏せる域まで届いていればSF的にも社会批評的にも十分に機能するだろうな、というのは余計な感想かな。

紙文「じーちゃんの話」

 子供の立場から死を見つめ、死を悼まなかったことの後悔について柴犬を通じて見つめる。そして自分と同じように死を悼めなかった者に想いをはせ、代替行為として柴犬の死んだ場所で手を合わせる。そしてどこかに自分のじーちゃんの墓があると祈る、というような話だった。
 リアリティ、ログライン、話の落とし方まで特に気になるようなところはない。延々と主人公の一人称による語りを改行なしで読ませられるが、主人公の言葉が途切れることを知らないのでむしろするりと読めるようになっている。この際は威圧感を感じるというよりは集中力を切らさずに読める長所として受け取った方がいい。わかりやすい話で、伝えたいこともシンプル。主題がじーちゃんの話だからタイトルにも文句はない。
 もしいちゃもんをつけるとするならば、書き方が端正すぎること、そして丁寧に書きすぎていることあたりになる。別にそう書けというわけではないが、殴りかかってくるような作品ではないし、そういう話もあるんだなというくらいの印象で終わった。
 私は死に対してどうこう思うというより、生あるうちにやってあげられなかったことの方に後悔の念をおぼえるタイプだ。だから主人公の語りに対して没入するということはなかった。むしろ自分の記憶の方に引きずられて作品に集中できていない部分があったと思う。それに関しては私の落ち度だ。

こい瀬 伊音「ガラシャ殺し」

 懺悔という行為を通じつつ、過去の世界をファンタジックに描いた掌編。清原マリアの視点で神などいない、誰か救ってくれというような願いが書かれている。どうして救ってほしいのかといえば、自分という存在が寄る辺もなくただ他人に扱われる物のようであるためなのだろう。多分、とつく。この作品中のマリアは、神などいないことを信じながらガラシャの傍にいて流されるように生きているため、信仰の如き筋の通った強さを備えていないというような疑似的な自覚を持って生きている。だから読んでいる側としてはなにかに縋りつきたいのだろうなというように見える。ただ、これも一見してという感じになる。

 身体ごと、よりかかってしまえるもの。こころごと、預けてしまえるもの。強くも弱くもないこの脚に道しるべを。誰か。

こい瀬 伊音「ガラシャ殺し」

 この書き方が私にはわからない。強くもなければ弱くもない。つまり自分が「普通」だと思っていて、それに確信を抱いているのだろうか。
 あるいは、ここで呼びかける誰かというのは極めてシンプルに「愛情を抱ける他人」、つまり「自分が甘えていいひと」を探し求めているというふうに読んだ方がいっそ潔いのかもしれない。
 ちなみに歴史とか全然詳しくないので清原マリアのことはwikiで調べた。史実ではガラシャと一緒にいなかった「らしい」というのと、最終的に出家したということが書かれている。
 他方、別のwebページではキリスト教をポイした男と駆け落ちしたとも書かれている。この補助線を引くと恋愛前日譚として整合性が取れるので、本稿ではこちらの説を採用したものとして作品を読むのがエンターテイメントだな、というように思っている。

ハギワラシンジ「ラザニヤ避け」

 読んでて眩暈がしてくるくらいわかりづらい小説。イグファンすんぞ。
 この話の要諦はなにかを表皮を切り裂いて読んでみる。
 ラザニヤとは主人公にとっての障害であり、不愉快なものである。だから作中に出てくるラザニヤは主人公と敵対しているといっていい。これは作品の最初に出てくる怪物と似たような存在に見える。
 怪物というのはただの比喩で、おそらく俗世間的ななにかだろう。主人公にとっては彼女を害するものなのだろうが、彼女にとってはたいしたものではない。だから主人公の考え方と彼女の考え方の間にはそれなりに距離がある。
 一方、彼女の方は主人公に芯を求める。主人公から見て、それは避雷針にあるべきものでありラザニヤにあるべきものではない。主人公は彼女から見た避雷針のことをラザニヤだと認識しているので憤るのだが、彼女との間に認識の齟齬があるので話が一々噛み合わない。
 話がようやく噛み合うのは最後の最後になったときだけ。

「ねえ、どうして分かってくれないの? 結婚してあげるって言ったでしょう。あなたは芯を持ってくるだけでいいの。それを手伝って欲しいだけ。本当に、それ以外に望んでいないのよ」
 パイカたんの切羽詰まった声色に、僕はハッとする。

ハギワラシンジ「ラザニヤ避け」

 ここでようやくタイトルである「ラザニヤ避け」の意味がわかってくる。避雷針のように芯のあるものになることを彼女は求めている。それによって主人公は自分たちの生活にあるべきではない「ラザニヤ」を避ける「ラザニヤ避け」になれるということだ。それに主人公は気づいていなかった。最後の一行で彼女にいわれてようやく「自分がラザニヤ避け」になることを求められていることに気づいてハッとするというわけだ。
 まあこんな感じで読んでみたけど本当にあってます? というのが字数を費やして得た感想だ。この話は不条理な表現によって物語の本質を覆い尽くし、文芸的飛躍描写によって人の読解を逆に阻むといったことをしているように感じた。そうした結界のごとき作為性を私はあまりよく思わない。懸命に読解する楽しさというのはあるが、それはストーリーや感情理解を深めるという行為を理性的な範疇で強制されることのように思う。この作品のログラインが「あと一歩で結婚というところまで迫っているのに足りない状態でいる男が彼女の助言によってようやく足りるきっかけを掴む」というのであれば、この物語から得られる中枢UXはこのヘウレーカと恋愛的悦びの光に満ちていてもいいと思うのだが……。
 しゃべりすぎたな。忘れてくれ。これは他人の文芸だ。

中川マルカ「鱗」

 一読して受けた印象は幻想小説というものだった。世界を描くことや文芸することに溺れているという第一印象。
 この作品のカメラは疑似的にはマイカという主人公に寄り添っているのだが、このマイカ自身がなかなか出て来ないまま世界の方を描くことが優先される。ビジョンを楽しめということか。ただそれにしては映像的な描写というよりも口に出して呪文を唱えるかのような表現が多いことが気になる。読点の数が尋常ではなく多いことも特徴的で、この作品の読み方やリズムは読者の側に主導権がなく作品側に強いられる。ともすればこの読点がひとつひとつのイメージの連続を無理やり切断しているのではないかという疑問まで持たされ、これほどに文章側から圧力をかけられて不自由というのもなかなかない、という感想を得た。
 勝手に幻想小説にカテゴライズして読んでいるから読みについてもそれに思いっきり引きずられてめちゃくちゃ手前勝手になる。死がいつもそばにあるような世界の中で傷と痛みを通じて他人を背負って生きていく、そして自分自身が世界のような広さを持っていくというそのビジョンに到達するまでのアプローチが迂遠すぎるのがキツイ。作品の軸、あるいはそれが見えるところまでが遠すぎて、どうやって作品を読解すればいいのか、どういう作品であるのかということを読み解くことを難しくしている。
 ただの憶測だけど、この作品の中心は海と生命(魚と人、合わさったところの魚人)なのだと思う。だから開幕めちゃくちゃ海を描写しているのがやりすぎ感があって、バランスを崩してしまっている。最初に書いた通り、文章も綺麗さを求めることに突き進んでいて、文芸するための文芸をやっている、というかなりネガティブな感覚で作品に相対することとなった。
 幻想小説とその書き手は好きなんだけど、その好きはただよくわからんけど綺麗という印象に対して抱いているものではない。その美しさの中に謎の感動があるから好きなので、UXとして情が動かされない作品にはめちゃくちゃ厳しい態度になってしまう。for meのはずなのにnotがつくってのは哀しい。


 本稿は以上です。
 お読みいただきましてありがとうございました。

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