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「選択が正解ではなかったとき」vs.横浜

2024 J3リーグ 第6節
VS YSCC横浜
1-1 draw
スタメン

今節も応援ありがとうございました!
Abemaで無料配信されていたり、関東での開催で友人が見にきてくれたりと多くの方に応援されていることを改めてダイレクトに感じることができた1戦でした。
吉田松陰は「本を読む」「仲間と会う」ことが“古い自分から脱皮するための道”と説いています。
久しぶりに会う友人と話すことは本当に良い時間になります。
足を運んでくれた彼らには感謝しかありません。


では、今節の振り返りに早速入ります。

今節も勝つことができず、そして、失点をしてしまい、本当に形容し難い気持ちを味わっているというのが率直な感想です。
世の中のJリーガーのSNSを見ても、やっぱり、勝った時や活躍した時はたくさん更新され、反対に負けた時は、更新頻度は低く、更新されたとしても、余計な言葉が省かれ、Jリーガーに負けた時用のテンプレートがJリーグ側から配られているかのような投稿ばかりです。
僕も負けた時のnoteは勝った時よりやはり消費カロリーが高いなと本当に感じます。
特にGKは責任が見えやすく、よりその傾向は強いのかなと思います。
GKって大変でしょ?と同情を誘いたいわけではありません。ただ客観的事実として、サッカーはそういうスポーツなんだと存在しているだけです。

今回のnoteで何を書こうか考えているとき、まず、大きな話題として、失点があるよなと思いました。
結論から言うと失点自己分析をこれから書こうと思いますが、まず、この失点に関して、書こうと思った思考について書いておこうかなと思います。

少し実験的な内容になりますが、タイトルにも書いたように、今節は、自分が選択したプレーが明らかに失点につながりました。そこに関しては一切の弁解はありません。
ここでつらつらと失点のこと書いても、ただの言い訳にしか聞こえないよなとも思いました。
しかし、それで、これからの日本のGK文化は良くなるのか、GKとして活躍したい子どもたちが育つのかという観点から考えると、やっぱり、自分を取り巻く批判や僕自身の憂鬱な感情なんかより優先すべきだよな、と僕は考えました。

書くことでどう転ぶかわかりませんが、また、大した者でもない僕自身のnoteがある意味、大きな影響力なんてないと測りつつ、実験的なことを楽しみにして書いていこうかなと思います。

よろしくお願いします。


まず、失点シーンの僕のプレー意図は、クロスボールが目の前でルーズになり、相手フォワードの頭上に落ちそうになりました。
そして、そのボールがある位置はボール幅より外だったのは認識できていたので、そのまままっすぐ、ボールを掻き出せば、ゴールから遠ざけることが出来る、かつ、自分がとにかく先にボール触れば、自分の意図でセカンドボールを作ることが出来るので有利になると考えました。
ただ、その時には自分と相手フォワードの関係しか把握できておらず、奥にいる味方がいるところにそのセカンドボールがいってしまい、味方に当たり、セカンドボールを自分のコントロール外に送り出す形になってしまいました。
そして、失点。

これがプレーしている当時の自分の思考、意図です。

そして、試合が終わり、映像で振り返りました。
先日、読了した「競争闘争理論」という本にはサッカーは選択を正解にしていくスポーツだと書いてあります。試合が終わって振り返って初めて、そこに正解はあり、それを、分析することで、次の正解になりうるプレーを選択することができます。

今、映像で振り返れば、まず、ボールが上に上がったタイミングで、僕自身がフラットに止まることができずに、動き出しが遅れていたことがわかりました。そして、コンマ何秒の遅れが、自分の意図的なプレーを邪魔し、失点につながってしまったと分析します。
また、セカンドボールのアタックでキャッチ出来るかどうかについては、まず、キャッチするには両手が必要で、相手の頭より先に触らなければならないと考えていた自分は、両手より片手の方が速いと判断しました。
皆さんも、グータラしながらテレビ見ていて、出来るだけ動かずに、かつ、手を伸ばせばギリギリ届くところにあるリモコンを取ろうとする時、両手で取りに行く人はいないでしょう。人間は身体の構造上片手の方が遠くに届くし、速いのです。無意識的に我々はそれを理解しています。もう一つ例を挙げるなら、ボクサーも両手でパンチしないでしょう。片手ずつです。
あのセカンドボールをキャッチするためには、先ほど書いたように、そこまでたどり着くまでのスピード、準備の質に目を向けて、時間的余裕があって初めて、キャッチングという技術があのシーンで使えるのかなと思います。

そして、あのセカンドボールは上に上がりました。
そこから何が言えるのかというと、人間は上を向きながら移動することが非常に難しいのです。
なぜなら、足は下にあるからです。歩きスマホはもちろん危ないですが、下を向きながらだから人間はなんとなく出来ちゃうのです。頭より高い位置にスマホを挙げて、歩きスマホすることを想像して見てください。歩くの怖いですよね。
これらから言えることは高く上がったボールに対してアクションすることは人間の機能的に非常に高度であるということです。世界のトップレベルのGKがコーナーキック等で大したコンタクトではないのにキーパーブロックをアピールしているのを見ますが、それは、ボールが頭より高い位置にあり、相手のコンタクトを認識できていないから大したことのないブロックを対処出来ていないからです。
今回の失点も、ボールが上に上がったことで、相手フォワードの位置は把握できていたものの、あんなに目の前にいる味方の頭にボールをぶつけてしまうほど、僕の認知力は低いレベルにありました。
そして、僕は頭上にボールがあるときの認知が難しいということを分かっていながら、過ちを犯してしまいました。圧倒的な実力不足です。
分かっていても出来ないのと、分かっていなくて出来ないのはサッカーにおいて、同値です。

本当にいい経験をすることができました。

今回のnoteは全体で3000字くらいなのであのたった1プレーで約2000字ものnoteになっていました。
感覚的、野生的な側面が多いスポーツですが、こんなにも語ることが出来ること、そして、このたった1プレーによって得られるもの失われるものが多すぎることを今節で痛感しました。

「1プレーにこだわれ」とよく耳にしますが、その1プレーを不運で片付けるのか必然と捉えるのか、その選手の価値観によって、大きくそのこだわり方が変わると思います。
刻一刻と状況が変わるサッカーの1プレーをこだわり続ける、そして、そのこだわりをすぐに捨てて、次のプレーにこだわれる、そんな選手になりたいと思いました。

サッカー選手を評価するのは僕ではありません。
Jリーグスタッフとチケットを買って見ているお客さんの皆さんです。

なかなかパワーを使ったnoteになったし、否定的な意見もありそうな内容なので、有料コンテンツといくクローズドなnoteにしようかと思いましたが、皆さんにとって、このnoteが、今この瞬間の感情より、この先の、より良いサッカー文化に寄与されることを勝手ながら願って、今節のnoteを終わりにします。

ありがとうございました。

画家が歩む運命は「宴か餓死か」
『リボルバー』by 原田マハ  より

『宴か餓死か』
そんな人生を歩めますか。

櫻庭立樹

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