55.離縁と離婚

子どもにはなんの異常もなく、無事退院の日になりました。
産まれたばかりの我が子を胸に抱いている写真の周りに看護師さん達の寄せ書きがしてある色紙と花束を受け取り、玄関で看護師さん達に見送られながら母と娘と3人で実家に戻りました。

実家に戻った夜に病院での舅たちの言動を両親に話しました。
そのうちに彼も来たので私の両親と彼と私と子どもで和やかな時を過ごしました。

毎日彼は仕事終わりに子どもの顔を見にみました。

私達が実家にきて3日目の夕方のことでした。
突然、勝手口から姑の声がしました。
私は勝手口に近い子どもの頃からの私の部屋にいました。

奥の部屋から母が来て、開け放っていた私の部屋のドアに手をかけると
「内側から鍵しめて」
と言い、ドアを閉めました。

私は急いで鍵をしめて、耳を澄ませると
「あの子いるんでしょ!?出しなさいよ!!」
姑の金切声が聞こえました。

一瞬、姑のいう「あの子」が我が子のことで、自分達の内孫だから取返しにきたのかと構えましたがそんな訳はなく、姑が金切声を出してまで執着しているのは、邪魔者の嫁が産んだ自分達とは全く血の繋がりのない孫ではなく、私が実家にいる間に一緒に寝るのを楽しみにしていた息子のことでした。

「うちにはいませんよ」
冷静に答える母に向かって姑はまた金切声をあげました。
「そんなわけないでしょ!くされ嫁が実家に帰ったらうちで寝泊まりするって約束したのに来ないのはお前たちが来させないようにしてるんだろ!!」
そう言って家に上がり込もうとする気配がしました。

「勝手にあがるな!」
その時それまで冷静に応じていた母がぴしゃりと言い放ちました。
「おたくの息子さんはうちにはおりません。そんなに手元に置いておきたいなら首に縄でもつけておいたらいかがですか?いい大人の息子にこうやってつきまとうことで息子を窮地に追い込んでるのがお分かりになりませんか?」
そう続けると、姑は訳の分からないことを叫び出しましたが、母はそれ以上は相手にせず勝手口のドアを閉めて鍵をかけ
「もう大丈夫」
と私の部屋の扉の向こうで言いました。
母はいつの間にか強くなり、何か嫌なことがあっても争いをさけて自分が悪者になってその場を丸く収めようとする私が知っている母とは違っていました。
この時、初めて私は母に尊敬に近い気持ちを抱きました。

子どもが1歳を迎える、本来であればみんなが子どもの成長や変化を愛おしみ大切に見守るこの一年は、舅らの言動によって一時も気の休まらない年でした。

彼が養親から「結婚して自分達を裏切ったことに対する慰謝料とこれまでの養育費を返せ。それができないなら家に戻れ」という主旨で家庭裁判所に調停を起こされました。

父は孫を片親にしたくないらしく、あの親と離縁する気があるなら、例え訴訟になったとしても全面的に応援すると彼に話しをしましたが、彼は離縁を決意することができず、ずるずる時間だけが過ぎていきました。
彼のその態度に父もこの離婚はやむなしと判断し、離婚後の私と子どもの住まいの確保の意味合いで、父が「出産祝い」と称して私名義で土地家屋を購入してくれました。
すると舅が「うちの息子の金も購入費にあてたはずだから、この土地家屋は俺のもんだ」と新居にのり込んできて「お宅の息子さんは一銭もだしていない」と父に撃退されると、なぜか舅らは役場の住民課に出向き私への罵詈雑言をまくしたて警察を呼ぶ騒ぎになったことが複数回ありました。

こうして舅らの異常行動に悩まされながらも、私は着々と離婚後にやるべきことや、離婚したら彼に引き取らせるものなどの準備を進めていきました。

そして、子どもの1歳の誕生日が過ぎた数ヵ月後、父の「いくばくかの養育費の為にあの親子と関わると、子どもにとってろくなことにならない」という意見に私も同意見だったので養育費・面会なしで離婚しました。

彼は親権を争うことも、面会を希望することもありませんでした。
離縁の行動は起こせないが離婚には応じる彼は、子どもより養父母の方が人生に必要だったのだと思います。

出産から離婚までの約1年半、過食気味になることもありましたが私は以前のように大量の過食嘔吐をせずに過ごしていたことに、離婚後しばらくして過食嘔吐が再発してから気が付きました。

                                                                                  


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