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28カ国の追憶 -旅のお話-

01 カステラ

子供の頃から「カステラ」はポルトガルのお菓子だと思っていました。一度本場の「カステラ」を食べてみようと、リスボンで「カステラ」を買い求めたのですが、味はただのスポンジケーキ。帰国してインターネットで検索してみると、カステラは現在のスペイン辺りにあったカスティーリャ王国のお菓子で、「これはカステーリャ王国のお菓子です」と訳されたことから「カステラ」と呼ばれるようになったそうです。実は同じようなことを「プリン」でもしていて、バルセロナで有名な「フラン屋」さんに行き満足して帰国したのですが、「プリン」のオリジナルは「プディング」で、英国の船の中で残飯整理をした時に開発されたんだそうです…


02 インターネット

インターネットで画像を検索すると、驚くものが沢山あります。例えばピラミッド、砂漠の真ん中にドンと構え、月明かりに青く照らせているイようなメージですが、実際の現場は民家が隣接していてロマンに欠けます…ストーンヘンジは限りなく高く、石の周りを古代人が行き交うようなイメージですが、実際は手のひらサイズにしか見えないくらいの石が環状に並んでいるだけです…それとは逆に、画像と全く同じイメージの世界もあります。バカンの神秘的な仏教遺跡群などは写真そのものなのですが、こういう画像だけを見ていると、まるでミャンマーがとてものどかで平和な国であるかのように勘違いされてしまいそうで心配になります…


03 ファイユーム

旅に出る時に用意する電気製品はスマホだけです。荷物もできるだけ軽くして、いざとなったらリュックを背負ったまま観光できるような荷造りをします。行き先は大体ガイドブックに載っている所ばかりですが、たまに現地で地図を買い、旅行者が行かないような所も旅します。これが結構面白いんです。大当たりだったのはエジプトはファイユーム、「アルケミスト」に出て来るオアシスです。カイロから長距離バスで3時間、街に着くとアジア人を見たことがないのか、行き交う人達は目を丸くして私を二度見しました。姿形が異なるから奇妙なのかと思っていましたが、実は異邦人の扱い方がわからなかったようです。安宿の主人にトイレットペーパーを頼むと、少年が銀のお盆にトイレットペーパーをのせ、深々とお辞儀をして部屋に入ってきたのを覚えています。


04 クウェート侵攻

イギリスで学生をしていた頃、幼い頃に英国へ一家で亡命してきたアラブ系イギリス人女性と一年暮らしたことがありました。1990年にイラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争の発端になりましたが、その頃、彼女は一家でクウェートで暮らしていて、侵攻を機に、彼女のお父様はご家族をデモクラシーであるエジプトに逃し、医者であるお父様自身は患者さんのためにクエートに在留します。ある日、お父様の家にイラク兵が土足で上り込んできて、今から20分与えるから必要な物をカバンに詰め家から出て行くようにと、お父様は銃口を向けられ命令されたそうです。何を持ち出そうか一瞬考えたそうですが、お父様は現金にも宝石にも一切手は触れず、家族のアルバムと若い頃に奥様から頂いたラブレターをカバンに詰め自宅を出発されたと言います。お金は働けばもう一度手に入るが、思い出は二度と手に入れることはできないと…亡命先のイギリスでもお父様は医師を続けられているそうです。


05 ミャンマー

今は軍事国家となってしまったミャンマー。そこにはかつて民主主義を夢見た物売りの少年たちが放課後に一所懸命働いていました。彼らはいつかミャンマーが開国することを夢見て、英語と日本語を懸命に学んでいたのです。「大丈夫、僕らはにはアウンサンスーチーがいるから!」が彼らの合言葉でした。ミャンマーに滞在している日本人もとても素晴らしい方々で、格安で子供達に日本語を教え、彼らの夢を後押ししていました。印象深かったのは、ミャンマーに到着したばかりの時、小銭がなくバスに乗れないでいると、ミャンマーの民族衣装を着た日本人女性が近づいてきて、「良かったら、使ってください」と数枚の紙幣を渡してくれたことです。「私はこの国に来て沢山の人達に助けられました。だから私はあなたを通してお礼をしたいのです。」と。ミャンマーには目がキラキラした素敵な人達がたくさんいます。どうかいつか軍事国家が崩壊しますように。


06 ウクライナ

ウクライナの話をすると古い友人を思い出します。恐らく軍事侵攻が始まった時に亡命したと思いますが、友人はつくづく運がない人だと思いました。彼女と出会ったのはスペインでした。ユーゴスラビア出身の彼女は…今はセルビアですが、氷のように無表情でとても友達にはなれないと思いましたが、話している内にどんどん親しくなり、帰国後も手紙を、時代が変わりメールを交換していました。ある日、彼女から驚愕のメールを受け取ります。戦争が始まったのです。彼女は毎日爆撃を受ける中私にメールを書き続きました。そして彼女は一家でハンガリーに亡命します。その後、彼女からは音信が途絶え、コソボ紛争がおさまった後に彼女の友人から、彼女はハンガリーで知り合ったユダヤ人と結婚したという知らせを受けました。そして歳月は流れ彼女とはFacebookで再会します。今は彼女の夫の仕事の都合でウクライナにいると…「ウクライナはね、とても寒いのよ。」それが彼女と交わした最後の言葉です…

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