見出し画像

シリア-8- アレッポ

2012年10月末から、約1週間、僕はアレッポに滞在しました。人間が生きるにはあまりにも過酷な環境でした。四六時中、昼夜問わず鳴り響く砲声や銃声、空を旋回するヘリコプターの羽音や一瞬にして頭上を通過する戦闘機のジェット音、空爆はロシアンルーレットと変わりません。誰であろうと標的にされます。そもそも標的すら定めることなく、政府軍は爆弾を落としていました。

空爆により瓦礫と化した住宅街

「隣の建物は数日前にアサドの爆弾でやられたよ。知り合いが何人も殺された。空を怖がってもどうしようない。雨はどこにでも落ちるだろ?それと同じ。ここには安全という場所がどこにもないんだ」

崩れ落ちた建物の隣に住むおじさんは、軒下に腰を下ろして、僕に話しました。上空を戦闘機が駆け抜けるたびに縮み上がる僕を見て、笑っていました。前線から離れていれば、銃声や砲声が聞こえても、ここまでは届かないだろうという安心感がありますが、空爆はおじさんが言う通り、雨と同じでどこにでも落ちてくるので僕はいつも怯えていました。

「爆弾以外にも、アレッポはまともに暮らせる環境にないんだ。自家発電機がなければ電気がまるでない。水道だってパイプが破壊されて、一日一回くる給水車に頼るしかない。野菜や果物、肉や卵、全てが戦争になる前の2倍から4倍ほど値上がりしてる。あと病院だって負傷者でいっぱいで機能していない。パン屋は行列で何時間も待たなきゃいけない」

WFPから支給されるパンを求めて大勢の住民が押し寄せていた

戦争とは些細な日常が奪われることです。些細な日常、それは人が殺しあうこととは別に、普段、僕たちが暮らしている環境が破壊されることです。日本で暮らしていると、スイッチを押せば電気が付きます。蛇口をひねれば水が出ます。スーパーに行けば、肉、魚、野菜、果物、お菓子、飲料水、なんでも手に入ります。風を引けば、病院で診察して、薬を処方してもらえます。アレッポも僅か数か月前まではそんな日常が当たり前でした。それが戦争で一気に状況は変わります。

アレッポで武装蜂起が始まったのが、2012年7月です。それ以前にも反政府デモが起きていました。アサド政権の取り締まりが厳しくなったり、物価も多少は上がったりしていましたが、まだ日常生活が送られるほどには落ち着いていました。それが、僕が訪れた2012年10月、僅か三か月で、アレッポは人が住めないほどに荒廃してしまいました。

アレッポには多くの子供たちが取り残されていました

なぜ逃げないのだろうか。アレッポには戦闘員以外にもまだ多くの一般市民が残っていました。いつ死が訪れてもおかしくないのです。逃げようと思えば、トルコに逃れることができます。パスポートがなくても、トルコは難民としてシリア人を多く受け入れていました。

「お金に余裕があれば逃げるさ。でも、そんな人間ばかりじゃない。難民としてテント暮らしなんてしたくないしな。だったら、ここで最後までアレッポがどうなるか見届けるさ」

僕が滞在したアレッポ東部、反体制派地域に残る人々が様々な思いを抱えて、暮らしていました。僕はたったの1週間でアレッポを去りました。トルコに戻ったとき、心の底から安心しました。なんでもあるのです。電気も水道も食料も。銃声も聞こえなければ、空から爆弾も落ちてきません。でも、隣の国には何もなくただひたすら戦争がおこなわれていました。

僕にはいつでも逃げれるという選択肢がありました。もし現地の人のように逃げたくても逃げられない状況に陥ったとしたら、そのときはどうするのだろうか。たぶん、あんな状況下のアレッポで暮らすくらいなら、難民になってでも、逃げようとするだろう。そう思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?