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誰にも知られず殺される人たち

・KPSの仲間たち

たまたま知り合った若者から紹介された地元の通信社KPS、大学卒業したばかり、何の経験もなく、実績もない僕を、彼らは快く迎え入れてくれました。記者、写真家、編集者、誰もが優しく接してくれました。

「カシミールで何が起きているのか伝えてほしい」

それがすべてだったのかもしれません。編集長のクルシード、編集者のフィルドース、記者のムシュターク、写真家のアルシード、経営者のラジャ・ムヒディーン、マジード兄弟、そのほかにもKPSに関わる誰もが僕を歓迎してくれました。

毎朝、8時ころにKPSの事務所に顔を出します。べニア板だけで仕切られた10畳ほどの空間に7,8人が布団を敷いて、眠り込んでいます。彼らが起きるまで、地元の英字新聞に目を通して、時間を潰します。9時ころに布団から一人、二人と這い出してきて、「タケシ、タバコくれ!」と言うので、一本、二本、投げると、うまそうに吸います。

煙が充満するKPSのオフィス

僕は情報がとにかくほしい。何か起きていないのか。そう尋ねるのですが、「とりあえず、チャイでも飲めよ」とミルクティーを勧められます。その間にも時間は過ぎていきます。そんな日々が過ぎたある日、「タケシ、まだはっきりとしないが、昨夜、村人が殺されたみたいだが、行ってみるか?」と言われ、僕はその言葉を聞くや否や、すぐさま車を手配しました。

・ジャーナリストになるということ

初めての取材のことお話させていただきます。詳しくは自著、「シリアの戦争で友だちが死んだ」を読んでいただけたらと思います。

KPSからもらった情報をもとに、記者一人を連れて、僕はジープで現場に向かいました。胸が高鳴ります。なにしろ初めての取材だったからです。僕はジャーナリストと名乗りながらも、それは建前で、実際は戦争そのものを見てみたいという、ただそれだけが目的でした。自己満足です。

日本で暮らしていると、戦争が遠く感じました。そもそも、戦争が起きていること自体が、僕には信じられないというか、現実味がありませんでした。高校生のとき、たまたま目にした本に衝撃を受けました。それは戦争のルポルタージュで、僕が生きているこの世界で、人と人が殺しあう戦争というものが本当にあることを知りました。でも、信じられませんでした。

カシミールの話に戻ります。現場はすごく田舎でした。カシミールの州都スリナガルから100キロ以上離れた小さな村でした。僕が到着すると、村人がたくさん集まってきました。手を引いて案内された場所には、白い布で包まれた人間が横たわっていました。遺体でした。

拷問されて殺された遺体。顔は殴られて腫れあがり、歯はボロボロで、両眼はくり抜かれて、潰されていました。なぜこんなひどいことを。僕の質問に、村人は、「この辺りはイスラム武装勢力を支持する村人が多い。だから、インド軍は我々を脅すために見せしめとしてこの若者を殺した」と説明しました。遺体の傍らには泣き叫ぶ兄弟と父親がいました。

僕はただ戦争というものを自分の目で見たかった。本当に戦争がこの世界に存在しているのかを知りたかったのです。だから、それが確認できれば満足でした。でも、遺体と対面したとき、「このまま、僕の胸の中で終わらせられないなあ」と感じました。今、この現場にいるのは、僕だけです。もし、僕が何も伝えなければ、ここで起きた惨劇は誰にも知られることがありません。だから、伝えないといけないと思いました。

ただ、その思いは、ジャーナリストとしての正義感からでは決してありません。ジャーナリストと名乗っていることへの義務感です。彼らはこの現実を外の世界に伝えてくれる存在として、僕を「ジャーナリスト」として受け入れてくれました。だから、それに応える義務があると感じたのです。

ジャーナリストとして初めての掲載誌

帰国してから売り込みをしました。ちょうどイラク戦争と重なり、カシミールの取材なんて誰も興味を示してくれませんでした。僕自身も、大学卒業したばかりで経験、実績もない状態です。それでも、どうしても伝えないといけないという責任がありました。僕が伝えたところで、何か変わるわけではないけれど、少なくとも、ジャーナリストの使命だけは果たしたかったのです。正義感ではありません。ただ肩の荷を下ろしたかったのです。

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