父のこと

 最近、父のことがよく意識にあがってくる。

 父は15年以上前に他界しており、特に関係のある日が近いわけでもない。

 だが、いい機会なので父について残そうと思った。しかし、いざ書き始めると思うように進まない。時間がかかったわりには自分の思い出だけになってしまったが、よければお付き合いください。

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 父は57歳で亡くなった。ガンだった。

 山陰地方の山奥で生まれ育ち、魚は頭から尻尾まで食べ、好き嫌いはなく、生まれた時代にしては背が高く骨太な人だった。

 ヘビースモーカーだったので、肺の病気にかかるのではないか、という心配ぐらいで、長生きしそうな人だった。

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 父は真面目で寡黙だったが、人を楽しませたという気持ちも持つ人だった。
 しかし、見た目の印象と寡黙なところは子どもから見ても組織に馴染めそうにない雰囲気だった。
 自分が他者と馴染めないのも、父をみていると仕方がないと思える部分があった。

 父の祖父は厳しい人だったらしい。祖父は一代でそこそこの財を築いたらしいのだが(自分の知る時代には、その財も尽きていたようだ)、子どもには学校より事業の手伝いで力仕事等をさせられ、自由もなく、早く家をでるために高校を卒業すると関西方面にある自動車メーカーに就職した。

 自分が生まれた時には、自動車整備の町工場を営んでいた。

 母は結婚後に整備士免許をとり、事務的なことを手伝っていた。自分たちが生まれてからは主にパートで働き、家計を支えた。

 父はやはり人を雇わなかった。

 当時の車検は必ず陸運局で行っており、車検の仕事が入ると恐らく1日潰れただろう。

 1人で請負う件数には限界があり、結婚前はサラリーマンだった母の貯蓄を時には崩しながら生活していたようだ。

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 父は釣りが大好きで、土曜日の深夜から一人で釣りに出かけていた。

 我が家の旅行は年2回。盆と正月に父の実家に行くことで、この時が一番長く一緒にいる時間だった。

 自分の子ども時代は、イクメンなどという言葉はなく、学校行事に父親がくるのは珍しい時代だった。友達親子というのは、もっと未来の話だ。

 父は尊敬していたが、親しくはなかった。

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 自分の実家はその狭さから、早くから家を出るように言われていた。

 2歳下の弟は運良く地方の大学に進学し、寮に入った。

 自分も就職してお金をため、一人暮らしを始めた。

 しかし、家を出る少し前から、父は朝の2時頃に家をでて仕事に行っており、異常なほど仕事をしていた。

 後日、母に聞いた話では、母も本人からは聞いてはいないが実家に仕送りするためだったのではないかということだった。

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 父はかなり体調が悪くなるまで仕事をしたらしい。ついに動けなくなってから、けがなど何かあったらとりあえず通っていた内科を受診し、すい臓がんだからと市民病院の紹介状を受け取ったそうだ。

 父の父は50歳ぐらいで肝臓の病気で亡くなったらしく、本人も肝臓に関しては敏感だった。最初の病院でがんと告げられたのはショックだっただろうが、肝臓でなかったのはすくいだっただろう。

 しかし、市民病院で私たち家族は、原発は肝臓ではないがすでに肝臓に転移しておりそこが深刻な状態、明日どうなってもおかしくない、と宣告される。

 当時は今と違い、本人への告知義務は100%ではなかったため、すい臓ではなく別の臓器のがんであること、肝臓に転移していることを伝えたが、体力が回復すれば手術できると説明し、肝臓の深刻さは伝えなかった。

 しかし、父は家族が全てを伝えていないことはわかっていただろう。

 なぜなら、検査結果が判明しても担当医が数日決まらず、全く説明がないままに不安な日々を過ごしたからだ。

 担当医が決まらなかったのは、多分、手の施しようのない患者を担当する人がいなかったからだ。

 やっと担当医が決まったのは、弟のおかげだった。

 当時、理学部の学生だったが医学部の教授のもとでアルバイトをしていた。

 入院した父に会うため実家に帰ることと担当医が決まっていないことを聞いたその教授は、病院に連絡してあげると言ってくれたらしい。

 その教授は、父が入院した病院内で大きな学閥の出身らしく、連絡によりすぐに担当医が決まった。

 事実、家族への最初の説明時に、その担当医は弟をその教授のもとで学ぶ医学生だと思っていたことが判明する。

 誰だって死にゆく者を担当したくない気持ちはわかるが、もしかしたら治癒するかもという家族の期待と、どんな状態かという本人の心配を察知できないのは、病院という世界も世俗的なところだと思ったのを覚えている。

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 父は約半年間の治療を経て、他界した。

 父の状況を聞いた時の母の希望は、なるべく痛くないように、苦しくないようにしてほしいということだった。

 一度は退院し、通院に切り替わったが再入院したとき、担当医から1つの話があった。

 それは、「いくら痛み止めを打っても効かなくなった時、本人が1番痛みを感じないのは眠って意識がない時だと思う。その状態にする薬があるが、それを一度打つと24時間打ち続けなければならない。意識が回復することはない。打った時にショック症状で亡くなる可能性がある。大体の方が1本打ち終わる前に亡くなる。」ということだった。

 母は、それで本人が苦しくないなら用意してほしいと希望した。

 担当医は、打つときは家族の人が言いに来てください、いつでも打てるように用意しておきます、と回答した。

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 父はとても我慢強い人で、覆水が溜まってもあまり痛いと言わず、父より先に母が抜いてもらうよう病院に言っていたようだ。

 滅多に頼み事をしない父。見舞いに来て欲しくないから誰にもいうな、と言っていた。しかしある日、実家の母を呼んで欲しいと言った。

 その日の夜に、実家の母(自分の祖母)と2人の弟が田舎から来てくれた。

 面会を終えて、少し辛そうにして休むと言った父を見て、母が自分に言った。

 「先生にあの薬をお願いして。」

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 その役目はやっぱり自分なのか。
 母には辛すぎるし、弟にも言わせにくい。
 覚悟はしていたが、父が意識的に動くことがなくなり、話すこともできなくなる。死刑宣告をするような気持ちでナースステーションへ行った。

 そして涙が止まらない状態で、担当医に薬の投与をお願いした。

 これは自分にとって、父の命の期限を決めてしまったような後ろめたさや残酷なきもちがあり、今でもトラウマのようにその時の感情が思い出せる。つらい記憶だ。

 こうして、父は通常の人より長い時間の薬の投与を受け、安らかに(と思いたい)旅立った。

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 父は弟が卒業したら、工場は畳んで警備員などの仕事をしながら好きな釣りを楽しむ余生を想像していたらしい。

 歳をとってから無理な働き方をし、誰かのためではあったのだろうがそれが結果的に命を削ってしまった。

 倒れるように入院したため、前日までしていた仕事は途中のままであったし、最後まで工場のことを心配していた。

 やりたかったことや楽しみにしていたことができなかった後悔や悔いが残っていたのではないだろうかと思うと、人間、いつどうなるかわからないからできるだけ悔いのないようにすべき事を決めたいと思うようになった。

 思うだけで、実際には色々なものに引っ張られてしまい、今死ぬと悔いだらけである。

 しかし、人間だけでなくモノや場所もいつまでもそのままの姿であるとは限らないのだ。

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 父の死は自分に多くの物を残した。

 恥ずかしがり屋で強がりだった父は、最期は、家族をみんな部屋から出した。
 自分は、思ったより父が頑張っておりまだまだ大丈夫なのではないかと思い、年度始めの繁忙期だったこともあり忌引きに備えた仕事の整理に半日ほど職場に行っていた。母と弟は病院内の食堂にうどんを食べに行った直後にこの世を去った。

 職場に行った自分を悔い、死に目に会えないことのつらさと後悔を体験した。

 この経験のおかげで少し人に優しくなれた気がしている。

 あまり話すことのなかった父だが、まだ若かった自分に色々な物を残し、去っていったのだった。

*表現などは気をつけながら書きましたが、当時
 の気持ちをまだ消化し切れていないのか、読み
 返すとしんどいので細かい点検ができていませ
 ん。誤字、脱字、誤解を与える表現がありまし
 たらご容赦ください。









ありがとうございます^_^