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卒論という山の上から見える景色

卒論が山場。毎年のことではあるが、ここ2年ほどは授業外での指導(添削含め)は、教員のワークライフバランスを考えた結果、ほぼしていない。とはいえ、うちのゼミではサブゼミ的に個人指導を別時間とってやっているので、他のクラスの倍はやっていることになるのだけれど。

卒論指導では結局、時間切れになるまでに「どこの部分」まで指導を受けられたかが、作品の質と、作者の学びに関係するといつも思う。ちゃんと調査結果がまとめられて、結論部分まで指導を受けられた学生は、論文全体の意義を振り返り、自分が何を成し遂げたかを確認することができる。

そしてそこまで書いてやっと、ちょっとだけ自由に好きなことを書ける(提言・あとがき)。逆に言えばそこまでは、自分の主張は一切書けない。それが科学的論文なのであり、また文章とは最後に至るまで結論は作者にもわからない、といったことを実感できるので、とても貴重な機会なのではないかと思っている。

でもそれは「山の頂上の景色」なので、そこまで到達しないと分からない。マーケティング用語で言えば経験財。経済学的には情報の非対称性。最後までやってみないとその意味・学習成果・得られるものがわからない、という性質を持ったサービス/作業なのです。

だから、ふもとでうろうろして、締切ギリギリに字数埋めて提出した、という学生には想像つかない眺めであるわけで(※1)。結局それが成績の差にもなるし、それよりも本質的に、それで大学生活フィニッシュとなってしまうのは、とても残念なことだなと思う。でも繰り返しになるけど、山に登ってなければ、その「損失」もわからないままに大学を去って行ってしまう。

※1 ただこれはサボっていたわけではなくて、諸事情あったりどうしても最初の方でまとまらず足踏み…といったこともあるので結果的にそうなったということもあり。教員の指導の限界もありますね。

「残念」なのは教員にとっても、である。というのは、調査結果が出てきて、どうそれを考察するか、そして、結論がどうなるかを議論することは、卒論指導で一番楽しいところなのだ。逆に言えばそこまでは、つらい。なんでこんなことが出来ないんだ〜と思いながら(毎年のことだからいいかげん「できない」をディフォルトに考えればいいのだろうけど、なかなかそう考えられない‥)、そんなことは言わないで、毎年毎年同じことを学生に指導していく。

調査結果が出てくれば、そこからはひとつひとつの論文が輝き出す。その調査結果を挟んで、あなたはどう考えるの?先生はこう考える、という「対等」な議論が、ここに至ってやっとできる。なかには思った結果が出ず、苦しむ学生が出てくるが、じゃあその「思ったとおりでなかった結果」をどう考える?という議論は、それはそれでクリエイティブになることもある。

「対等」と書いたけれど、実際にはそれほど対等になることはありえなくて、やはり教員サイドの考察を語って、それで学生が納得する(させられる)ことが多くなってしまう。ただまあ、それはそれで悪いことではないと思ってて、やっぱり教員の方が考察の仕方の「厚み」が違うということに、学生が「圧倒」される機会となるのも、よい勉強なのかなと。ただし、ここで教員の意見を学生が「忖度」しないように、こちらも気をつけなければとは思う。

しかし教員の側からすれば、せっかくここまで地道に先行研究集めて調査してそれらと格闘してきたのだから、学生には最後こそドバーッとひらめきを発揮して欲しいと思ってしまう。自らの中から出てきた「ことば」でそれを表現して欲しい。苦しみ抜いて、頭に圧をかけて絞って、出てきたその最後の血/知の「ひとしずく」こそが、あなたが大学で学んだことのすべてがふくまれた「命の水」なのだよ、と。

そしてそれによって、教員の側にも驚きを提供して欲しい、と思ってしまう。そういう解釈ができるのか―!面白い!エウレカ―!! と。まあ、欲張りなのだろうけど。

毎年、卒論指導の時期に突入すると、今年は何人の学生とそういう話ができるのかな。と思いながら、それを始めている。

(写真は大学最寄り駅のJR茨木駅のイルミネーション。学生の地域活動を受け入れていただいている「茨木バル」の方が市から委託受けており、ちょうど設営中でした。今年もありがとうございました。そして今年も迷惑をおかけしました。とご挨拶して、あれこれ学生のことなどお話してから帰りました)

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