物語がくれる「脚力」—矢馬潤の場合

 今年、千葉ロッテマリーンズの永野将司投手が公表したことで話題になった、広場恐怖症。永野投手は大学在学中からこの症状に悩まされているそうだ。この話は私にとって他人事ではない。年齢がひとつ違いでほとんど変わらないだけではなく、私自身、大学在学中、具体的には大学1年生の夏から同様の症状を患っているからだ。

 なぜ、いまこのような話をしようとするのか。それは、奇妙な因果だと感じるが、この不安障害を患わなかったならばおそらく私は大学院には進まず、そしてこのような文芸同人にも参加しない生活を送っていた思われるからだ。だからこそ、最初のうちにこんな話をしておくのも悪くはないだろう。


 広場恐怖症とは不安障害の症状のひとつである。「広場」という字面から誤解を招くかもしれないが、ここでいう「広場」とは閉鎖された空間、つまり逃げ場がない場所のことを言う。代表例が、電車や飛行機などの公共交通機関。永野投手も新幹線や飛行機での移動がつらく、各駅停車の電車や自動車を用いて遠征をしている。おそらくだが、この自動車というのも自分が運転するものに限られるだろう。多くのひとが乗るバスや見知らぬひとが運転するタクシーは、やっぱり「広場」になってしまう。ほかには、映画館、試験や会議、身動きが取れないほどの人混みなどもそれにあたる。野球選手となると生活のシーンの至る所が「広場」だろう。ピッチャーにとってのマウンドなど、まさにその最たるものだ。この症状のつらさを知っているからこそ、永野投手には頭が下がる。

 広場恐怖症にもさまざまな要因があるのだが、その典型は、パニック障害の発作を繰り返していくうちに合併的に起きてしまうものらしい。同様の状況で発作が繰り返し起きる。やがて、発作が起きることを恐れて、同様の状況に陥ることを避けようとする。そして避けられなかったときにはまだ発作は起きていないうちから、発作が起きてしまうのではないか、起きたらどうしよう、と不安や恐怖に襲われる。これが不安障害だ。不安障害の厄介なところは、発作を恐れるあまり自分の行動にどんどん制限をかけていってしまうため、社会活動への参加が難しくなり、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)が下がっていくことである。

 広場恐怖にはなにかしらのトリガーがある。これはひとそれぞれだと思うが、私の場合は嘔吐への恐怖だ。

 嘔吐恐怖症についても、つい最近なにかのテレビ番組で取りあげられていた。これは読んで字の如くで、嘔吐することが怖い。吐いてしまったらどうしよう。そう思うと、外でご飯を食べることが怖く、ときには水分を摂ることも恐れる。そして、すぐトイレに駆け込めない場所に居続けることも怖くなる。すなわちこれが「広場」で、私は嘔吐を恐れるあまり、「広場」に身を置くことにも恐怖を覚えるようになったのだ。

 嘔吐に恐怖を覚えるようになったきっかけは明確にある。それが大学1年生の夏休み、免許合宿だ。

 免許合宿とは、泊まり込んで集中的に教習を行い、自動車の免許を取得するプランのことだ。2週間の日程、その最後の2日間に体調を崩し、朝食のあとに嘔吐を繰り返した。送迎のバスが宿に来る。これに乗らねば教習を受けられない。それを受けないとスケジュールを完遂できず、場合によっては延泊を余儀なくされる。便器に顔を突っ込んで戻し続けていると、バスの運転手が扉越しに「もう出ちゃいますよ」と出発を告げる。置いていかれてはたまらない。手で口を押さえて胃液の飲み込んで、茫々の体でバスに乗り込む。この2日間がトラウマになった。吐くことが怖くなった。胃にものを入れたくないから、ご飯は食べられなくなる。人前で吐いてしまったらどうしようと思って、外に出ることも怖くなるし、電車にも乗れなくなる。それまで普通にできていたことが、まったくできなくなってしまった。

 最初はただの夏バテだと思っていたが、母に買い物の付き添いを頼まれたとき、三和土に降りることができなかった。腕を引っ張られてもその場を動けない。これは普通ではなかった。そして1週間後、母親に付き添ってもらって病院に行った。その待合室での1時間半で、いったい何度「僕はここで死んでしまうのではないか」と思ったことか。呼ばれる頃には歩くこともままならず、母曰く、高齢のおばあちゃんがずいぶん心配そうに見ていた、とのこと。そのとき紹介された心療内科で診断を受けたことで、自分のこれが精神的なものに起因することが分かった。

 一時期は一歩も外に出られない有様で休学も考えたのだが、幸い大学という場所はわりと自由に休むことができるから、最悪単位が足りなくなって留年してもいい、ということで処方された薬を服用しながら通学は続けた。そのためには電車に乗らねばならないのだが、これが驚いた。口の中の唾が飲めないのだ。嘔吐が怖いから、胃にものを入れるのが怖い。それが極限までいくと、ひとは唾液すら飲み込めなくなるのだ。汚い話だが、溜まったものはハンカチに出して片道40分弱を堪えていた。90分の講義、教室に居続けることがつらかった。昼休み、ひとの多い食堂でご飯を食べることができず、ひとのいないベンチ、おにぎりひとつかゼリー飲料1本で空腹をしのいだ。それでも、行動療法を続けながらだんだんと薬の量を減らしていくように努め、友達と出かけることもできない、飲み会や懇親会にもあまり参加できないで、到底満足なものとは言えないが、なんとか大学生活を送っていた。

 ところが、周りが就職活動を始める段になって、私はいまいち身が入らなかった。インターンというものに行けなかったのも、やはりこの病気が大きい。ただでさえ食事が怖いのに、知らないひととご飯を食べるなど無理だ。この時点ですでに出遅れている。さらに面接が怖い。緊張よりも、戻してしまう恐怖で。就職したあとのことが怖い。週5日、8時間も仕事をするなんて、想像するだけで気が遠くなる。結局、公務員のふたつの箇所に面接で落とされ、急遽始めた民間企業への就職活動、その一発目で、ベンチャー企業の内定が出てしまった。しかも飛び込み系の営業。私の症状を考えたならば一番合わない。本来ならもう少し就職活動を続けるべきだった。しかし、これ以上就職活動をしたくない私はやめてしまった。いまになって思えば、どうしてこれほどまで慌てていたのだろうか。もう少し慎重に、そして大きく構えていればわかったはずのことだった。その企業での1回目の入社前研修。いきなり、40件ほどの電話営業を課される。携帯の発信ボタンを押す指がいちいち震えて、それだけで3分以上かかることもあった。ああ、駄目だ、これは続けられない。そのとき明確に悟った。

 それをきっかけにようやく真剣に考え、大学院を目指すことを決め、内定を辞退する。この辞退までにもまあいろいろあって何度も逃げ出したくなったのだが、これだけはけじめだと思い、なんとかやり通した。

 モラトリアムとして大学院に進むことを批判するひとが少なくないことは知っている。だとすれば、私など真っ先に糾弾されてしかるべきだろう。研究という空間に身を置いてみたいという意欲は本当にあったが、別段反論しようとは思わないし、その種の批判もそれなりには正しいと思う。が、このひとたちが私のような人間のことを守ってくれるわけでもない。だからもう気にしていない。

 結局、大学院への挑戦を決めたときには募集も終わっているところが多く、1年間浪人の経て、いまに至る。この浪人期のあいだに、自分のからだにも合っていると思われる校正の仕事の技能をスクールで学び、いちおう資格も得て、そこに来ている求人を経由して、多少の仕事をもらっている。お金や生活のことを考えるとずっと今のところにいようとは思っていないが、とりあえず、それほど苦はなく働けている。

 そのうえ、これは予想外だったのだが、この浪人期から大学院でのさまざまな繋がりや活動が功を奏してか、恐怖症がだいぶ改善しているのだ。まだ外食はやや苦手ではあるが、それでも薬の服用頻度はだいぶ下がり、常備はしているがほとんどお守りになっている。

 一般的にはいまでも引きこもり気味だと思うが、それでも、大学時代にくらべたら雲泥の差だ。一人旅行など、当時だったら絶対に考えられないことだ。身体にもそれが出ていて、一時期54キロまで落ちた体重も、もとの62キロを越えて65キロまで増えたし、おまけに偏頭痛もめったに起きなくなった。

 だから、私にとって大学院での2年間とはたぶん、大学の4年間のやり直しなのだ。研究の場という本分を考えれば大学院をこのように使うなど言語道断かもしれない。が、これからの私の人生を考えたとき、この2年間があるとないとではまったく違う。この遠回りによって、ようやく私は脚力を得たのだ。

 そして、この「やり直し」というのが、物語の大きな力ではなかろうかと感じている。物語によって、現実を生きる者はもうひとつの世界を生きてみることができる。あり得たかもしれない世界、あり得ないけれども魅力的な世界、心の奥底に閉じ込めていた夢の世界。これらは、現実世界そのものをくれるわけではない。なにか現実世界で、目に見える成果を生み出すわけではない。けれども、読んだ者に、現実世界を歩く脚力を与えることがある。

 すると、私はまさに現実世界のなかで物語を生きたのだろうか。それは分からない。とにかく、この生き直しでの繋がりから生まれた「これからも文学を続けていくこと」を目的とした文芸同人に参加した私は、これから何度も「やり直し」ながら、現実を歩んでいくのだろう。

 そして望むらくは、私が書く物語が、だれかの歩く脚に一抹でも力を与えることだ。きっとそれが、物語の力に生かされている私にできる恩返しだから。

(矢馬潤)

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