文学はこんな夢を見ているのだろうか?―『児玉まりあ文学集成』書評

 私はこれでもいちおう、大学・大学院の六年間、高等教育機関で文芸を学んでいる身である。これまで、数々の文芸理論をつまみ食いのようにして囓り、様々な小説の技法を学んできた。(まさにつまみ食い的な勉強で、喩えるならば、野生の猿が人里に降りてきて、畑の果物のおいしいところだけを囓っては捨て、囓っては捨てを繰り返しているようなもので、行儀が悪いと言われれば、むべなるかな、といったところである。)
 この学科を選んだのは自分で小説を書きたいと思っていたからだった。だから、最初の二年間くらいはある技法を講義で聞くと、これは使わねばならないとすぐさま実作に用いようとしていた。
 もちろん、それが悪いことだったとは思わない。スポーツや楽器の練習を想像してもらえればわかりやすいだろうが、練習のときにはやや過剰に意識するくらいでちょうどいい。意識の繰り返しが無意識につながるからだ(実のところ、芸術には体育会的というか、体力勝負の側面もあるのだ)。ところが、あるときそれが自分を窮屈にしていることに気づき、以来、読むときはまだしも書くときには、あまり技法を意識しないようにしている。するとどうだろう。そんな風に書いてできあがった作品を読み直してみると、習った技法がそれなりに活きているではないか。(だから、二年間の練習は無駄ではなかったとも言えるのだが。)

 御託を並べたが、要は方法論ありきで書かれたものがあまり好みではない。なまじ理論を知っているせいか、その方法にばかり目がいってしまい内容に目を向けられなくなってしまうのだ。読んでいると、どうも上滑りしている感じがしてしまう。
 ところが、その理論自体を作品の内容にしてしまうことでこの問題を昇華してしまう作品も存在する。テクストでいえば筒井康隆『文学部唯野教授』がテリー・イーグルトン『文学とは何か』を下敷きにして文芸批評をテーマとしたメタフィクションを作りあげたが、漫画という表現方法を用いて文学の要素をテーマに物語を描いている作品がある。それが、三島芳治『児玉まりあ文学集成』である。

 「トーチweb」で連載中のこの作品は、現在単行本で第一巻が刊行されている。学校の文学部を舞台にして、唯一の部員で部長である文学少女・児玉まりあと、彼女に惹かれて文学部への入部を希望する笛田くん、ふたりの「入部テスト」と称した、「語彙」「記号」「比喩」などの文学の構成要素をテーマにした不思議なやり取りが描かれている。
 この作品の、文学に対する基本的なスタンスは、第一話「比喩の練習」の冒頭ですでに現れている。(「/」は改行を示す。)

 児玉さんは言った
「木星のような/葉っぱね」
 彼女の言葉は/文学的である
「それは/どこが」
「意味は/無かった」「でも今/私が/喩えたから」「この宇宙に今まで/存在しなかった/葉っぱと/木星の間の関係が/生まれたの」
「言葉の/上だけ」
「これが/文学よ」
児玉さんは/まるで/詩のように/改行の多い/話し方をする(六、七頁)

 現実をテクストによって写し出すのではなく、テクストによって現実が生まれる。第五話「盲目の文学」でまりあは「文学という形式のテクニカルな面だけに関心がある」と述べているが、ここにはどことなくロシアフォルマリズムの感がある。(あるいはその先にあるヌーヴォーロマンの手法までも射程に入れることができるかもしれない。)
 ロシアフォルマリズムでは、文学作品よりも「文学性」、そのテクストを文学たらしめる要素に注目する。そこでよく言われるのが「異化」作用である。
 小説の言葉(本来この分析は詩の言葉に適しているように思うが)は、日常的に使われる言葉とは違う、とロシアフォルマリストは言う。簡単に喩えると、「氷のように冷たい人」という表現に疑問を抱く人はいないだろう。それは「自動化」されて日常的に使われる言語だからだ。一方、「氷のように優しいハンバーグ」と並べられたら、なんだそれは、と考え込んでしまう。そして自分が思っている「氷」「優しい」「ハンバーグ」とはどんなものだったろうかと反芻し、やがて新しい「氷」像、「優しい」像、「ハンバーグ」像が、この並びの言葉に出会わなかったならば考えもしなかった像が生まれていく。ざっくり言えば、これが詩的言語の「異化」作用だ。いままで当たり前のように思ってきたものに違和感を与える。言葉によって現実を揺さぶる。そのような運動から、新たな現実が生まれるのだ。
 ここで重要なのは、「氷」「優しい」「ハンバーグ」というそれぞれの言葉の内容ではない。この三つを並べたことに要因がある。言葉の並び、これをもっとも単純なレベルでの「形式」と言うことができるだろう。この「形式」を文学の要素としてテクストを分析する立場が、ロシアフォルマリズムである。
 この視点はおもしろい。小説は、映像作品と比べると直接的に像を提供できないのが大きな弱点である。しかし、同時にそれは特徴でもある。そもそも文字や言葉というものは、どうがんばったところで現実に存在するある対象そのものを言い表すことはできない。「林檎」という文字から思い描く林檎の色や形はひとそれぞれである。映像であれば、その林檎そのものを写せばよい。
 一方で、映像にはできないものを提示するのに、文字は適している。なにせ、文字はそもそも、現実そのものを写すことができないのだから。だったら、現実には存在しないものだって容易に生み出せる。「宇宙の煌めきと漆黒を閉じ込めた透明で柔らかい正六十四面体の林檎」と言ったところでなにがなんだか分からないが、それが「ある」と書かれたら、そこには「ある」のだ。
 このようなことを、まりあはこう表現している。

「自分の/頭の中の物を/他人の頭へ/伝えるために」「世界を/ばらばらの/記号にうつしてから/元どおりに/組み立て直す」「これが/会話」
「でも今/私がしたように/少し組み方に/不正をすれば」「「そうでは/ない事」も/言葉の上では/作れてしまう」
「これが/文学の/第一段階よ」(一二〇頁)

 そのような特徴を持つ文字を用いた表現方法である文学を分析するときには、フォルマリストの視点を持たなければ大きなものを見落としてしまうことがあるだろう。
 一方で、ではそれだけで文学作品が作れるかとなれば、それは違うだろう。私の感覚では、やはりフォルマリズムの理論は分析のための理論なのだ。実作にそのまま適応できるとは限らない。
 「形式」だけでは作品を生み出せない。これを喩えるならば、非常に細密な設計図は引けるけれど、ノコギリを引いて木材を切ることができないならばそのひとを大工とは呼べない、といったようなものだろうか。最初に私は自分の経験として、技術ばかりにとらわれて小説を書いていたときには窮屈さを感じていた、と言った。改めて考えると、これは設計図ばかり引き直して、実際の木の肌触りはいまだ知らない、そんなもどかしさに由来していたのかもしれない。私はまだ自分で作ってはいなかったのだ。いま以上に未熟だった私がまず欲していたのは、完璧な豪邸の設計図よりも、不格好な犬小屋だった。
 形式偏重のまりあも、そのことはよく分かっている。「表現すべき内容」や「空想する才能」、「夢を見る力」。まりあが持っていないこれらの素養を十二分に持ち合わせた、目の前の世界を自分の理想の世界に作り替えてしまうくらいの妄想力を持った笛田くん。彼に、自分が持っている文学の技術を教え込めばきっと大文学者になる。そんな「夢」を語るまりあは、だからあの手この手で、「入部テスト」という形で笛田くんに文学の諸要素について考えさせ、そして実践させる。
「形式」だけでは作品は生み出せない。だから「形式」自体を物語の推進力にして、しかも、人一倍「形式」を重んじながら、それだけでは作品は生み出せないことを自覚している少女による大文学者育成計画である『児玉まりあ文学集成』という作品を作りあげた。実のところ、これは二重のメタになっているとも言える作品なのだ。
 と同時に、この「入部テスト」とはまりあと笛田くんの間の思慕を育てる過程のコミュニケーションでもある。つまり、ここでも「入部テスト」のテーマである「形式」は、けっしてそれ自体が目的になってしまってはいない。彼女が意識しているかどうかは分からないが、彼女の目的は笛田くんとの関係を育むことであり、「入部テスト」はその手段なのだ。だからその実、物語を作る力がないと思っているまりあは、手持ちの「形式」を用いながら、しっかりと笛田くんと自分の物語を、内容の伴った物語を描いているとも言えるのかもしれない。だから、まりあの同級生は彼女について、このような言葉を漏らすのだ。「自分だって笛田に夢みてるじゃない」と。
 そして、このメタ構造は、文学を漫画で表現する、という表現方法にも及んでいる。『児玉まりあ文学集成』の線が描くのは、作中世界のにおける現実、ではない。笛田くんの妄想、そしてまりあの言葉が、その線を引くのだ。だから、笛田くんの見るまりあは実際のまりあとはまったく別の外見をしているにも関わらず、それでも、作中では髪の長い美少女として描かれていることは、おかしくともなんともないのだ。そしてこれは、まさにロシア・フォルマリストが提唱したであろう、文学の言葉によって描かれた世界だ。

 やや強引な気もするが、この作品については、つまりこのようにまとめることができるだろう。
「異化」そのものを描く漫画作品であるこの作品は、笛田くんの夢であり、まりあの夢であり、そして文学の見る夢であるのだ、と。

(矢馬)

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