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馬との暮らし 装蹄師の父との思い出

こちらの文章は、ご本人の希望により匿名Bさんと表記しています。

Bさんの父は、Bさんがまだ小学校に上がる前昭和17~19年頃、羽黒下駅の通りにあった*1鉄沓屋かなぐつやに弟子入りをしていた。その当時、*2装蹄師は国家資格だったので、誰でも出来る仕事ではなかった。父は、装蹄師として誇りをもって仕事をしていたとBさんはいう。
羽黒下で修業した後、海尻(現:南牧村)で蹄鉄屋を開業した。

装蹄師とは、馬の蹄と蹄鉄を手入れしてつけ直す仕事。蹄は人間でいう爪にあたり、蹄鉄は人間の履く靴にあたる。
馬の脚を装蹄師の厚い前掛けに挟み、固定しながら蹄鉄を外す。伸びた蹄を切って整えたあと、今度は蹄鉄を馬の脚に合わせ、形を整える。そして、蹄鉄を熱して装着する。蹄鉄を打つ釘は、丸いと簡単に抜けてしまうため、四角い釘だったそうだ。釘は打ち込んだ後、曲げて切る。爪の中に血管が流れているから熟練の技が必要だった。
爪を削る際には、専門の刃物を使った。蹄鉄は、千葉から取り寄せていたそうだ。

当時、蹄鉄屋は、鉄沓屋、装蹄師、鍛冶屋と4つの呼び方があった。
「道路に面して細長い家だったよ。仕事場と住居が繋がっていた。家の中に通りがあって、土間だね。お勝手があって馬屋があった。隣は、馬車屋だった。*3 ほろが付いた人を乗せる為の荷車を馬が引いていた。父は当時、その家を18円で買った。」と、昔の家を思い出すBさん。
南牧の辺りには他に蹄鉄屋を営む人がなく、父の仕事はとても忙しかったため、薄暗くなっても作業が続いた。その頃、家には電球が1つしかなく、その1個を台所やあちこちで使いまわしてたそうだ。

後日、Bさんと実際に海尻の家と仕事場があった場所を尋ねた。


蹄鉄屋と自宅の跡地


海尻駅


当時の南牧の風景は、今とは違い周りは原野だったそうだ。夏でも霜がおりる程寒い土地で、大変だったという。山から材木を馬に引かせて運び出す土引きでは、馬が踏ん張るため蹄鉄が減る。装蹄師は、必要な職業だった。

父との思い出は、*4コークスの香りと蹄の焼ける匂い。
「嫌な臭いじゃないんだよ。コークスを炊くとハエが出ない。ハエやアブが来ると馬が暴れて危ないので、夏はアブ除けに使っていた。昔は、いたるところにハエや虫が凄かったが、コークスのお陰で家には虫がほとんどいなかった。」と、Bさん。
「父は、背が低かったがオシャレだった。チョーカーという今でいうニッカボッカを履いてブーツを履いていた。子ども心にカッコいいと思った。」と、父の姿を思い浮かべる。

もう一つの父との思い出は、下駄スケートを作ってくれたことだそうだ。
「兄と私の下駄スケートの刃を作ってくれた。下駄も四角に作って自家製の下駄スケートは、珍しかった。兄と長湖、松原湖にスケートに行った時、知らない大学生が、下駄スケートを貸して欲しいと言ってきた。丁度、昼ごはん時だったから、貸して家に戻ったら、『盗まれたらどうするんだ。』と叱られて戻ってみたら、大学生は、ちゃんと待っていてくれた。」と思い出を話すBさん。その後、蹄鉄屋で、下駄スケートを作って売っていたという。

Bさんはさらに、父との思い出を語る。
父はお酒が好きな人だった。ある日、酒場で喧嘩の仲裁に入った際、片方の人が頭を切って怪我をし血を流していた。装蹄師は、馬の身体の仕組みについても熟知している、その馬の救護の知識を生かして傷を縫い一命を取り留めたそうだ。ただ仲裁の際、父は小指を噛まれており、他人の処置に夢中で自分の処置を後回しにしたため、手に細菌が入りこみ化膿してしまった。開業したばかりの佐久病院へ行くと、当初『腕を切り落とさないといけない』といわれたそうだ。「そんなことになっては装蹄師としての仕事ができなくなる」と外科医の若月俊一先生に懇願し、若月先生が丁寧に手のひらの膿を取り出し、小指を切り落とすだけで済んだため、仕事を続けることができたという。

壮絶な出来事を教えてくれた後、Bさんは「今でも恩は忘れない。装蹄師の仕事が続けられ、子ども9人の家族が路頭に迷わずにすんだ。」と、しみじみ話した。

父は次男に装蹄師の仕事を継いで欲しかったようで、兄に*5とうねっこをプレゼントした。Bさんの家で飼っていた馬は、この馬が唯一だったそうだ。
兄は、馬の手入れをし、餌をやり、散歩させて大事に育てていたから、鞍には、人も乗せない、物も運ばせない。Bさんは、「今でいうペットだな。」と笑う。自由に遊ばせていたので肉付きも良く、手入れも行き届いた毛並みの良い馬だった。馬とかくれんぼをする事もあった、耳も鼻もよくとても賢いのがわかった。「馬も泣くことがあるんだよ、涙をポロポロ流していた。」と、飼っていた馬を思い出しながらBさんは教えてくれた。

ある日、子ども達が学校から帰ると、その馬が父によって売られてしまい、いなくなっていた。兄はショックで度々泣いていた。その後、車や機械などの技術の発展と共に、馬が生活の中で使われなくなり、装蹄師という職業が消えゆく時代になっていった。

その後、兄は家を出た。家の近所に作詞家の“いではく氏”が住んでいて、彼のお母さんが兄に仕事を紹介してくれたそうだ。近くの郵便局の国道沿いには、いではく氏が作詞した『北国の春』の石碑が今もある。


いではく作詞 北国の春の碑

Bさんと一緒に、昔馬を走らせた場所、当時の家と蹄鉄屋、隣の馬車屋があった場所を訪ねた。「今は、更地になってしまったけれど、何年振りかに来ることができて良かった。」と、Bさん。

近代化に伴って昭和30年代頃から徐々に馬を飼う家は無くなっていき、佐久穂町の周辺で当時装蹄師だった方を探してみても見つからず、直接話を伺うことは出来なくなってしまった。
今回、Bさんに装蹄師である父の話を伺えたことは、本当に貴重だと改めて思った。

*1:蹄鉄のことを鉄沓ともいう。
*2:装蹄師の国家資格は、昭和45年に廃止。現在は民間資格となっている。
*3:風雨や砂ぼこりなどを防ぐために荷台などを覆うための防水布。
*4:石炭を蒸し焼きにして炭素部分だけを残した燃料のこと。骸炭(がいたん)ともいう。
*5:1才くらいの仔馬のこと。「とうねっこ」は山形、新潟、長野、山梨、静岡で用いられる。

文 大波多 志保


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