水車小屋があった大日向4区で、13人家族で過ごした日々|小須田秀行さんのお話し
語り手 小須田 秀行さん
聴き手 大波多 志保
3世代13人が住んだ家
国道299号の前田橋を曲がり、本郷橋を渡った抜井川沿いに建つお宅。大日向4区にお住まいの小須田秀行さんを尋ねた。お庭には、よく手入れされた木々や花々が咲き、おとなしい川上犬の“じょりちゃん”が迎える。秀行さんは、昭和8年11月11日生まれ、御年90歳だ。広い畑は、かつて満蒙開拓で土地を離れる人から譲り受けたという。
秀行さんは7人兄弟の次男坊。子どもの頃は、ひいおじいやん、ひいおばあやん、おじいやん、おばあやん、とおやん、かあやん、姉やん、兄やん、秀行さん、弟、妹と、3世代13人家族でひとつ屋根の下で暮らした。
「近所のうちも7、8人(で住んで)いたと思うよ。」と秀行さんは話す。今とは違って、大勢の家族で過ごすのが当たり前だった時代だ。その中でも、秀行さんのお宅のような、3世代が共に暮らす家庭は少なかった。だから、宮の橋が出来た時、“縁起がいい”という理由で家族で渡り初めをさせてもらったという。
秀行さんのお宅では馬を飼っていたそうだ。おぼろげではあるが、その記憶があると話してくれた。兄弟で、馬の腹の下をくぐってよく遊んだ。それが楽しかったから、今でも覚えているという。
秀行さんが物心がつく頃には、馬は牛へと変わった。馬は気性が荒く、エサ代もかかり、飼い続けるのが大変でもあったからだ。同じく飼っていたヤギからは、乳を絞って家族で飲んだ。うさぎは、正月の肉へと変わり、にわとりからは、卵を採った。大きな熊が捕まれば、村のみんなで分けて食べた。熊の肉は旨かった、と秀行さんは話す。動物から命を頂くという行為が、今よりもっと身近にあった。(その当時は、イノシシも、鹿も今の様にはいなかったという)
子どもだったけれど、家族と一緒に一生懸命に働いた。田んぼの鼻取りは、牛を引いてやった。代掻き、田植え、稲刈りと、秀行さんは一通り全てを手伝った。
彼の仕事は、田んぼだけではない。山に行けば、牛の背中に桑の葉を積んで運んだ。家では、蚕も沢山かっていたそうだ。おばあやんが自分をたくさんかわいがってくれて、離れた土蔵の6畳間でいつも一緒に寝ていたと、懐かしそうに話す。
ひいおばあやん、おばあやんは、機織りの名人だったそうだ。機織りの上に乗ると調子が悪くなるから、登らんでくれよ、とよく言われた。綺麗で丈夫な、ゲートルを織ってくれた。
兄弟は、大きくなったらそれぞれ家を出て、秀行さんだけがこの家に残ることになった。ここには、子どもの時から今までの思い出が、沢山詰まっている。家を見つめる秀行さんの目は、優しい。
働いていた農協での出会い
秀行さんは、大日向尋常高等小学校卒業。その後、野沢中学校(現、野沢北高校)へ進んだ。卒業後、県立の長野市農協學園に進学。当時、事務方を専門に学ぶ唯一の学校と言われていた。全寮制の男子校で、学校から1人しか受からないほどの狭き門だった。
卒業後は、大日向の農協に勤めた。そこで、現在の妻でもある十喜(とき)さんに出会う。彼女は利息計算、貸付金計算をこなす優秀な女性で、そんな彼女に惹かれて結婚したのだと、懐かしそうに話した。
その後、秀行さんは県の中級職試験に合格し、学校の事務長としてあちこちの小中学校を回りながら勤務した。南牧小(その頃、広瀬、板野、平沢と3つも分校があったそうだ)、畑八小、畑八中、川上第一小、野沢中学、そして最後は、浅間中学だった。定年退職した後は、地方事務所の建築事務所に勤めた。
一方、仕事とは別に、プルーンやリンゴも育てていたと話してくれた。
秀行さんが子どもの頃は、今よりもずっと人がいっぱいいた、と話す。
「何しろこの辺は、子どもで一杯だった。でも今は、外へ出てみても1人もいない。寂しい世の中になってしまった。」
水車小屋があった大日向4区での暮らし
秀行さんが暮らす大日向4区には、水車小屋があったという。今とは違う景色だった当時の様子を教えてもらった。
「昔はね、抜井川は、もっと狭くて浅くて、水量ももう少しあっただよ。大日向4区には水車小屋が、2つもあった。川向うに1つ、南に1つ。そこで、米、粟、をついた。子どもは、大麦や古いもち米、砂糖なんかを入れた、コウセンっていう粉を、おやつに食べるんだよ。薄い茶色い粉のまんま。それがとってもおいしかっただよ。水車小屋には、順番があって、朝、早くに行って米を臼に入れる。夕方、ちょうちんを点けて取りに行く。1日がかりで米をつく。話になんねえくらい時間がかかる。今みてえに、あっという間には、つけねえだ。」
家の生業は、農業、養蚕、炭焼き、薪、山仕事だった。毎月17日は、山の神様にお願いする日だったと秀行さんは言う。持ち回りで交代で御馳走を作り、それをみんなで食べ、みんなで歌って賑やかに過ごした。そうやって、山の神にお願いをしていたそうだ。
秋の収穫が終わるとお餅つきをする。お月見には、縁側にお餅を出した。十日夜(とうかんや)という行事では、子どもたちが、20~30人ぐらいで家々を回り、藁でっぽうで地面を叩き、歌って歩く。その際、ミカンやお餅を持ち帰る風習があったという。戦時中でも十日夜は続いていたそうで、もぐらを追い払う意味があったのではないか、と教えてくれた。
子どもの頃の懐かしい思い出は、おばやんがまんじゅうを作ってくれたこと。それを食べて、抜井川で水遊びした。戦争中だったので、物資が不足していて小豆は貴重だったから、あんこのはいったまんじゅうは滅多には、食べられなかった。川遊びでは、“はや”という魚を20~30匹捕って、焼いて食べたそうだ。
学校で過ごした日々
小学校の頃は、春の陸軍記念日3月10日に、十石峠まで新しいわらじを持って行軍(こうぐん)した。行軍とは、当時の戦地の兵隊さんを思い、兵隊さんが歩くように、自分たちも体を鍛えること。わらじの裏に皮を貼って歩いても、わらじがすり減ってしまう。帰りに新しいものを履いて帰るために、予備のわらじを持って行った。その時期は山菜がある頃だから、道の途中でワラビなどを採って歩いた。
秋になると、男の子も女の子も、茂来山の頂上までみんなで走って競走した。小学校3年生以上の全校生徒が参加し、400人もいたという。秀行さんは足が速く、27位だったと笑う。
「秋は、葉が落ちて、登りやすい。熊よけしながら、登った。小学校1、2年生は、鉄山(かなやま)だったな。」
当時は子どもが多くて、1年生の時は、1クラス27人。紅組、白組の2クラスあった。
2年生になったら、47名全員が同じクラスになり、そのあと6年生までみんな同じクラスだった。戦争があったから、英語を勉強することはなかった。当時の同級生で生きているのは、小須田忠好さんだけになってしまった。
戦争中は、家が農家だったので、サツマイモを食べることが多かったが、お米も食べることができた。「(自分の家で取れたから、)配給は関係なかったのは、幸いだった。」
近所の龍興寺に、疎開中の子どもに炊き出しをしてみんなに食べさせていた既得な人がいたという。その方の名は、小須田太郎一さん。寝泊まりをしながら炊き出しをしていた。みんなのために働いてくれたことを、今でも印象深く覚えている。
終戦は、野沢中学校に通っていた頃に迎えた。後に野沢北高校になり、その時初めて女子が入ってきた。高校の時の思い出は、直江津の海に行って初めて海を見たことだという。
賑やかだった大日向
写真の中には、たくさんの子どもたちの姿がある。少子化の今の時代には、考えられないほどの、賑やかな人と大日向の風景と空気があった。
蚕を育て、糸を取り、機織りをして、家族の着るものを仕立てる。そして、蚕、馬、牛、うさぎ、にわとり、ヤギなど、家にはたくさんの動物がいた。鶏を肉にするのも大変な作業だったのだろう。
大家族で仲良く暮らし、畑も田んぼも家族総出でこなしていく。外で働き忙しい中、プルーンやリンゴを育てた小須田秀行さん、十喜さん。子ども3人をそれぞれ、大学へ出した。13人いた家族も、すっかり少なくなってしまった。今はそれぞれの兄弟2人しか残っていないという。周りもどんどん子どもが減り、人も行き交わなくなってしまった大日向だが、お話を聞いていると、賑やかだった頃の風景が目に浮かぶ。
今は毎日十喜さんの介護をしながら、食事も家事もこなしている秀行さん。90歳になった今も、毎日朝夕、川上犬のじょりちゃんを連れて、散歩を欠かさない。川上犬は、穏やかで、賢い。迷子になって捕まったひもを引きちぎって帰ってきたんだと、教えてくれた。秀行さんは、近くに息子さんと娘さんがいるから安心だ、と微笑む。
秀行さん、沢山のお写真と貴重なお話を、ありがとうございました。
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