わたしはそれをXと呼ぶ……わたしの故郷はもう、なくなってしまったのだから。
昨年の10月に27歳になった。アラサーだ。もちろん日本社会全体で見ればどう考えてもわたしは若者だけれども、「若者」という期待に常に応えられる年齢ではなくなった。気がついたときには、わたしよりも若い世代の「大人」が生まれていて、彼ら彼女らと何のギャップもなしに会話をすることはもはやできない。
今日(2月10日)の朝たまたま開いた産経ニュースで、LINEなどのメッセージアプリにおいて文末に句点「。」を付けることを若者たちのあいだでは「マルハラ」と言うと知った。句点の付いたメッセージを見ると、若者たちは相手を怒っていると思ったり、恐怖心を抱いたりするのだと言う。はじめて知った。もちろん真偽のほどは分からない。しかし気になって、わたしが21歳の大学生の女の子に送ったLINEを見てみると、あちらから送られてきたメッセージは、「!」や「、」「〜」と言った記号もしくは顔文字で終わるか、あるいはなにも付いていなかった。一方でわたしが送ったメッセージのほとんどには「。」が付いていた。そして思い出す。「さくひこさんって、会うと話しやすいですよね」と言われたことを。ああ、わたしはまたひとつ老いてしまったのか。
わたしが文章の最後に句点を付けることには、たぶん理由がある。すべてのひとへのメッセージで付けているわけではない。いくつかのLINEを確認してみたが、たとえば親しい同世代の友人や仲の良い先輩へ向けたものには付いていなかった。一方でわたしが他者と会話する際に、たとえば自分が「男性」で「年上」という属性を考えたとき、あるいはそういったものに加えて職業的な上下関係があるとき(こんなことは言語化したくないけれども、気がついたときには仕事をあげる⇆もらうみたいな関係性が生成されてしまうことがどうしてもある)、さまざまな言動がハラスメントにならないかと考えてしまう。それによって必要以上に丁寧になったり、あるいは関係性にはっきりと線を引いてしまったりすることがあるのだ。おそらく、わたしが「年下」「女性」「学生」みたいな他者に対して丁寧な口調を用いて、さらにはちくいち句点まで使ってしまうのは、こういった「おそれ」みたいなものから来るのだろう。それは確かに、あちらからしたら「怖いこと」なのかもしれない。しかし、なんでもかんでもハラスメントと呼ばれる時代とはいえ、ハラスメントを恐るあまりハラスメント(マルハラ)をしてしまうのは滑稽と言わざるをえない。もちろん、ハラスメントという概念はその関係性に上下や性差などの断絶を感じるから生まれるのであって、ハラスメントを忌避しようとして新しい断絶を作ってしまったら、新たなハラスメントが生まれるのは当然のことなのかもしれない。だってそこにはフラットで対等な関係性が存在しないわけだから。
ハラスメントという言葉を知ると、わたしたちはハラスメントという感覚を身に付ける。
言葉というのは、良くも悪くも、わたしたちの思考を作りあげるものなのだ。だから、慣れ親しんでいたものの名前が変わったとき、その慣れ親しんでいたものとかつてと同じように接することはできない。新たな名前に対して拒絶反応を起こすか、あるいはその対象が別のもののように見えてしまう。そう、わたしはいま、「Twitter」と「X」の話をしようとしている。
昨年の7月23日、Twitterの名前が変わると知ったとき、そしてそこに「徐々にすべての鳥とも別れを告げるでしょう」と書かれているのをみたとき、わたしは驚くと同時に、これは受け入れられないと思った。
わたしにとってTwitterはあまりに大事なものである。かつて音楽評論の賞をいただいたとき、プレスリリースに載せるためのプロフィールを要求されて、そこには「10歳からコントラバスを始める」と並べて「12歳からTwitterを始める」と書いた。わたしの人生やわたしが作った作品にとって、10歳からコントラバスを始めたことと同じように、12歳からTwitterを始めたことは大きな意味を持っている。
わたしは田舎の公立の中高一貫校に通っていた。あるときからわたしはクラシック音楽に熱中し、いわゆる「クラオタ」というものになっていった。しかし学校の友達で、ムラヴィンスキーやチェリビダッケの話が出来るひとはいない。だから、そこでTwitterを用いることは非常に自然なことだった。世の中にはクラシック音楽に詳しくてとても親切なおじさんがたくさんいたし、それだけでなく、やはり「クラシック音楽に熱中しているけれど、現実にはそれを共有する相手がいない」という中高生が何人もいたのだ。それはわたしにとって勇気付けられることだった。わたしは彼らからさまざまにクラシック音楽の情報をもらい、そして色んな思いを共有した。その交流はネット上に限らない。サントリーホールや東京オペラシティの楽屋口に一緒に並んで、名だたるマエストロたちのサインを一緒にもらい、そしてじっさいに面と向かってさまざまな会話をした。芸大受験の3次試験のときも、わたしにとっては「オフ会」だった。地方に住む音楽好きのフォロワーさんと試験会場で初めて対面で会う、なんていうこともあったのだ。つい数年前、どこかで「東京生まれTwitter育ち」と言ったこともあったと思うけれど、それは誇張ではない。Twitterがわたしの見識を広げる起因となり、そして他者とのコミュニケーションをわたしに学ばせた。Twitterで出会った大人がわたしにメンゲルベルクやクルレンツィスを教えてくれたし、そういったことがなければわたしの人生はいまとはだいぶ違うものになっていたと言うか、少なくとも音楽評論家をするなんてことはなかっただろう。それに、こんなことを書くのは恥ずかしいけれど、高校時代にはTwitterで出会ったひとと恋愛的な関係になったこともあった。出会うはずもなかったひとと音楽やあるいはもっと抽象的な「考え」みたいなものを共有し、それをきっかけにコミュニケーションをはかり、関係性を構築していく。それは日常のなかに溶け込みながら、一方で雲のうえに漂う、どこか神秘的なものだった。学びと出会いの「場」であり、匿名の自分が、あるがままの姿、あるがままの「好き」や「考え」を持って、無数の他者と対峙できる。それがわたしにとってのTwitterだった。
わたしにとってTwitterは、まぎれもなく自らの故郷なのである。だから、わたしはTwitterがXになると知ったとき、そんなことはとうてい受け入れられないと思った。自分の出身の街が市町村合併とかで名前が変わっても、そんなことは容易に受け入れられないと思うけれど、それと同じだ。わたしは頑なにTwitterと呼び続けるぞ、と決意した。
しかしそれから1ヶ月も経たないうち、つまり、昨年の8月中旬だったと思う。わたしの自主公演が終わったあとだ。公演を観に来てくれた24歳の女の子(事務職をしている社会人だ)と飲みに行き、その感想を言ってくれた。そして会話のなかでTwitterが出てきたのだけれども、彼女は何の違和感もなく、非常に自然に「さくひこさんの"X"で〜」と言った。少し驚きながらも頷きつつ話を聞いていると、やはりすらすらと「でもその前の"ポスト"には」と言う。わたしは、若い子はこんなにも早く、自然に、適応するのかと思った。わたしは過去を愛撫するだけのオジサンになっているのではないか、そのようにさえ感じられた。
それからわたしはTwitterのことをXと呼ぶようになった。もちろんぎこちないし、すぐにTwitterへ戻ってしまう。えっくす、ぽすと、りぽすと。何度も唱える、おまじないのように。
そうしていたら、あるとき気がついた。そもそも「X」は、すでに「Twitter」ではないのだと。そしてそれは、「X」の構造としても、「X」とわたし自身の関係性においても、とうの昔から、つまりまだ「Twitter」という名前を持っていたときから、すでに「Twitter」はわたしの故郷である「Twitter」ではなくなっていたのだ。
もはや、Twitterにはかつてのような「市民の広場」としての役割はなくなっていた。ひとびとが、薄っぺらい正義を振りかざして優越感に浸る。そして「インプゾンビ」と呼ばれる無数の金儲けのための利用。それはめまぐるしいスピードで更新されていく。わたしが中高生のときは、朝起きて、あるいは授業が終わってTwitterをひらくと、その前に見たところからその続きをひとつひとつ見ていったのだった。その世界は自分とぴったり繋がっているようで、わずかではあるけれど他者としての距離感があった。だからTwitterは、雲のうえに漂う広場だったのだ。しかし、いまのXが、まるでそういう場所でなくなっているということは、Xを使っているひとならば誰もが納得できるのではないだろうか。
しかし、そもそもわたしが東京に出て「布施砂丘彦」という名前でTwitterをするようになってから、つまり2015年頃から、わたしにとってのTwitterは以前とはずいぶん変わったものになっていた。本名でやっている以上、ほんとうに常に「あるがまま」でいるのはむずかしい。もちろん炎上したくないし、現実世界にややこしい問題を持ち込みたくない。そうするとどうしてもひとつ皮をかぶってしまい、自由な発言をすることができなくなってしまった。一方で、もし匿名でやってしまったら、わたしは「あるがまま」では無くなってしまう。なぜならわたしの「あるがまま」には、パブリックに行っている活動が含まれるわけだから。それを除いて「あるがまま」ということはできない。
だから、わたしは、二重の意味で、Twitterを、わたしの故郷を失ったのだ。かつての広場は、原型を留めないほどに荒廃し、名前も変わり、そしてわたしはかつてと同じようにそこへ行くことできない。そういえば、わたしの父が幼少期を過ごした群馬県山間部の小さな町は、数十年前にダム建設のため埋められてしまい、今も湖の底で眠っているらしい。ひょっとしたら、それは似たような感覚なのかもしれない。
しかし、半年ほど前、わたしは自らの故郷とまったく同じような町を見つけたのだ。それは現実世界にある広場で、しかしTwitterだった。それは、誰もが匿名的でありながら、誰もがあるがままでいることを許され、他者と濃密なコミニュケーションをし、しかし誰もが自分勝手なタイミングでログアウトをする。あるいは、シュッとタイムラインを更新するように、その場を変えることができる。
そう、わたしが再会した、あたらしい故郷とは、
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