エンニュイ「きく」を観た

 エンニュイという劇団の「きく」という公演を、小竹向原のアトリエ春風舎で観た。
 非常に充実した時間だった。とても良かったので、すぐにXへ感想を投稿することもできず、なんだかぐるぐると考えてしまった。演劇こそが、あるいはドラマというものこそができる、「言語化できない思い」を実に見事に、そしておそらく演者にとってもきっぱりとした整理ができていないような状態で、そのもやもやとした気持ちが舞台上にありありと浮かびあがっていて、それがいまだにわたしの胸から離れゆかないのである。

 これは、ひとの話をきくというときの「きく」というものをテーマにしたものである。6人の男女が楽しく話しているなかに、ひとりだけうつうつとした表情で俯く青年がいる。彼はおもむろに話し出す……「おれのお母さんががんになってしまった」と。
 友人たちは彼に寄り添ったりねぎらいの言葉をかけようとするが、彼は当事者ではない彼らの言葉に激昂する。「そんなこと分かってるよ、考えたよ、おまえが金だしてくれんのかよ!」と。ひととひとは分かり合えない……違う人生を生きてきたわけだし、状況も何もかもが違うのだ、まったくすべてを共感することなどできるわけがない。

 さて、「きく」をテーマに言葉を尽くしてこの演劇を分析することは、簡単だろう。
 演劇における「観客」とは英語でaudience、すなわち「みるもの」ではなく「きくもの」である。では、この「きく」とは何か。その語源は、obeyと同じく「従う」という言葉にある。西洋の演劇や演奏会における観客とは、「みるひと」ではなく「きくひと」、そしてそれは「舞台で行われているものに従うひと」である。それでは、聴衆の主体性とはなんだろう。そう、この演劇では「きく」をテーマにメタ的な構造を生んでおり、わたしたち「観客」はこのドラマを「きく」ことで……

 しかしこのように分析したところで、それはあまりに無味乾燥である。この演劇には、分類して言語化できるようなものより、はるかに大きな、何かうごめくようなものがあった。

 話をこの演劇のあらすじに戻そう。「きく」を軸に、ひととひととがすれ違いながら話が進んでいく。しかし、彼らひとりずつに「そうだよね、みんな違うもん、しょうがない」と頷こうとする自分に、この演劇は鋭い牙を剥く。
 女性の演者が、がんの母を持つ青年を、つまり当事者を責めて口論したあと、こう話す。「わたしには悪いところがあった。君にも悪いとこがあったよね。だから、ごめんって言おう。ごめん。ほら君も言ってよ、ごめんって言えば済むから」。この俳優は、嫌な、心が通じあわないときの演技がほんとうにうまい。この登場人物の彼女に、リアリティを持って嫌悪感を抱いてしまう。
 そんな彼女の発言に、もちろん当事者の彼は納得できるはずがない。「おれは当事者だよ? その俺がなんで悪いところもあるって、どっちもどっちみたいに言われなくちゃいけないの?」、するとまわりの友人たちが、彼に対してほらほらと宥めようとする。「いま謝れば済むよ」と。これまでの人生のどこかで見たことがあるような、そんな気がする、とっても嫌な光景だ。みんなそれぞれ違うよ、みんなに良いところと悪いところがあるよだなんて、頭ではたしかにそうなんだろうけど、ぜんぶに対してそんなこと言っていたら、じっさいの心が持つわけがない。心に寄り添うって、他者とのコミュニケーションって、そういうことじゃない。

 わたしたちには、誰かの話をほんとうに「きく」ことなんてできるはずがない。しかしわたしたちは「きく」ことを辞めてはならない。これはまったく相反することだ。だけれども、演劇は、ドラマは、こういった相反するものを同時に、まったく強力に成立させることができる。

 ちなみにこの演劇のなかでは「きく」というものがさまざまなかたちで現れていて、笑いながら見られる楽しいシーンもある(脚本・演出を務めるこの劇団の主宰者は元お笑い芸人らしい)。だから飽きることがないし、とっても笑えるのだ。アハハ、そう笑って見ている自分に、しかしはたと、いまは「きく」ができているのか、むしろ「きく」以外のことが許されていないのか、とか、そういった怖い疑念を抱いてしまう。これも、観客がリアリティを持つことへ大きく寄与していた。

 「きく」とはなにか。その考えをやめずに生きていきたいし、こういった演劇をわたしたちの生きる糧として、心の安全保障として、それに触れていきたい。

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