編集の合間に

ことさら忙しい二週間を過ごした。

書かなくちゃならないものが幾つか、編集チェックをしないとならない映像もちらほら。

映画「君の忘れ方」の音楽仕上げも、クライマックスを迎えていた。

音楽を依頼させていただいたのは、作曲者でありかつ演奏者でもあるチェリスト。
昨年の6月頃からやり取りを重ね、今年に入ってレコーディングが開始。僕もスタジオに入らせていただき、塩梅を打ち合わせしながら収録を見守った(とても贅沢な作り方をさせていただいたと思っている)。

三日前の金曜日が、その最終日だった。
エンディング曲の収録もあったので、この日はかなり緊張していたけど、無事に終わった。
疲労がどっと押し寄せた。
自律神経のようなものがピリピリする感覚があって、身体が痒かった。でも、妙に食欲はある。

こういう時どうすれば良いかを、僕は経験から知っている。
十二時間くらい寝ることと、映画を見ることだ。

映画→睡眠→映画→睡眠
で僕のライフバランスは復旧する。

金曜日、スタジオ収録終わりに僕は日比谷の映画館で「夜明けのすべて(三宅唱監督)」を観て、その夜は死んだように寝た。

土曜日正午過ぎに起きて、さて何を見ようかと少し悩み、ビクトル・エリセの「エルスール」を観ることにした。
立川市まで移動しないといけないが、移動の最中に読書をしていれば苦にならない。

結果、中央線が混んでいたことを除けば、行って大正解だった。
映画はとても良かったし、車内で読んだ「青の炎」は、実に16年ぶりに読み返したのだけど、これから作りたいものの参考に大いになった。

満足しながら帰宅して、ドラマ「不適切にもほどがある!」の3話と4話、そしてアメリカの短編映画を2本観て、寝た。9時間寝た。

寝起き早々、僕はまた立川市に移動した。ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」を観るためだ。
この映画は大学の頃に見た事があったけど(その時は寝てしまった!)、見返すと凄い映画で、ひゃあたまらんな、という気持ちでシアターを出た。

出たところで上着を羽織ろうと立ち止まっていると、背後から声をかけられた。
立っていたのは、淑女という言葉がこれほど似合う人もそういないだろうという、女性だ。歳は60歳前後だろうか。髪の毛に少し白いものが混じっていた。

「いま、何をご覧になったのですか?」
「ミツバチのささやきです」と、僕は答えた。
「やっぱりそうですか! 実は満席で入れなかったんです」と、淑女ははにかんだ。
手を見やると映画のチケットが握られていた。僕の視線に気がついたのか、
「だから今からの、エルスールを観ることにしたんですよ」と、彼女は答えた。
昨日見ましたよ、と僕が言うと、顔が明るくなった。
「どうでしたか? というか、ミツバチのささやきとエルスール、どちらが良かったですか?」

僕は、自分の心が甘く浮くのを感じた。
その問いこそ、まさに上着を羽織りながら考えていた問いだったのだ。

ビクトル・エリセというのは、御年83歳、スペインの映画監督だ。
ドキュメンタリーを除くと、これまでに長編の劇映画は2本しか撮っていない。
それが、「ミツバチのささやき」と「エルスール」だ。
寡作にして、映画史に残る二作を生み出してしまった監督して知られているエリセが、このたび31年ぶりに長編劇映画を撮った。公開中の、「瞳をとじて」である。
それを記念して、前述の二作が全国のミニシアターで上映されている、という経緯だ。


果たしてこの二作、どちらがより傑作なのか。これは大いに映画ファンを沸かせる議論である。
正直なところ、僕も上映中はこのことについて考えていた。

淑女に僕は、
「難しい質問ですけど」と前置きをした上で、
「僕は、ミツバチのささやきは、凄い映画だなと思いました。でも、大好きなシーンがあったのは、エルスールの方でした」
と答えた。

すると彼女は、「それはとっても楽しみです。実は両方、観るの初めてなんです」と微笑んだ。
それから、呼び止めちゃってごめんなさい、と言って、映画館の中へと去って行った。


僕は今、このテキストを映画館の下にある喫茶店で書いている。
エルスールを彼女はどう思ったのか、すごく気になる。いっそこのまま映画館に戻って、終わるのを待って話しかけようかとも思う。

でももちろん、そんなことはしない。
エルスールは、映画の後半部分を、プロデューサー都合でマルっとカットされてしまったのだが、そのおかげで傑作たり得た可能性もあるのだという。

つまり僕にとっての幸福の最大値は、今だ。
あの女性が、エルスールをどう思うのか、そしてミツバチのささやきを、また観にくるのか。それを考えるのが楽しい。

映画を作っていて、時折こうした凪のような時間を過ごして思う事がある。
人は、自分の人生に対してあまり真剣にならない方が良い。

自分の人生において、どうしても人は、自分が登場人物の中での主人公であることを願うし、そうなることを願いながら労働する。

映画の編集作業などというのは、もはや神様に近い作業であって、このシーンに環境音はどれくらい聞こえるのだろうかとか、音楽はない方が良いのだろうかとか。
とてもエゴイスティックで近視眼的だなとも思う。ビリビリに疲れて自律神経を痛めるのは、やはり僕が神様じゃなくて、人間だからだ。

人間である僕は、誰か知らない人と、知らない映画監督の話をして、少し盛り上がる瞬間に癒される。
そこにドラマは不要だ。
ただ、その視座を得ることができるのが、人生だよ、と知れる喜び。


僕の土日は終わっていく。
明日からまた、編集作業と執筆が始まる。

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