15年会っていない血の繋がった父の話
生後半年になる息子。
ぐずぐずと泣く彼を、ゆらりゆらり抱いて
大して広くもないリビングを何往復かした後
1時間程が経ち、やっとの思いで寝かす。
ふぅ、と一息ついて私も隣で横になる。
その寝顔を見て心の底から"愛しい"と思いながら
目を閉じ、意識を手放した。
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誰かの葬儀だった。人がたくさん居る。
不機嫌そうな父となにやら落ち着かない様子の母が古いパイプ椅子に座って何かを待っている。
傍には、ベビーカーですやすや眠る息子が居た。
遠く、遠くに見覚えのある人が居た。
15年1度も見なかった「血の繋がった父」が居た。
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(彼は私と母の間ではKさんと名前呼なので
以降そのように書く)
Kさんは、近所でも評判の「良いお父さん」だった。子煩悩で、優しい人だった、というのは母から後に聞いた話で 私はあまり記憶にない。
曰く、動物は彼によく懐き 野良猫が後ろをついて回るような人だったと。
曰く、産まれて初めて会った私にも屈んで目線を合わせ「初めまして、Kと申します。君のパパです。これからよろしくお願いします。」と言うような人だったと。
覚えていることと言えば、ママには内緒だよ、とコンビニで好きなお菓子を買ってくれて、年子の妹と一緒に店を出てすぐにお菓子を頬張った事。あと、遊園地に連れて行ってくれた事。セブンスターのおまけについてきた小さな深緑のライトが綺麗で「欲しい」と言ったら、手に入る度にくれた事、そのくらい。
小学校に上がる頃には両親は離婚していて、
今の父と一緒に住んでいた。
Kさんは、たまに会っては遊びに連れて行ってくれていた。
でもその交流も、私が小学校高学年になる頃には殆ど無くなっていた。
私の中学受験が忙しく、勉強漬けの毎日だったからかもしれない。別に理由があったかもしれない。
最後に会ったのは、小学校の卒業式。
多分、父兄として席がなかったのだと思う。
体育館の外に居た。
卒業式が終わり、退場で体育館を出ると視線を感じた。少し離れたフェンスの前に佇んでいた。シワシワのスーツに、ボサボサの頭で、「草臥れたライオンみたいだ」と思ったのを覚えている。
どうしてそんなに寂しそうなのか、と疑問に感じた。
当時はそれが最後に見る姿になるとは思っていなかったが、その後 会う事は無かった。
今はどこで何をしているか、生きているかすら分からない。
会いたいと思う事さえほとんどなかった。
妹は会いたいようだったが、私は自分のルーツにあまり興味がなかった。
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そんな彼の姿が、あった。
記憶より少し痩せていた。
髪はボサボサではなく、手入れされていた。
スーツもパリッとしていて、案外 清潔感のある姿だなと驚いた。
急いで母に息子を託して駆け寄る。
「久しぶり」と声をかけると、あの時と似た表情で寂しそうに笑った。
「おばあちゃんとおじいちゃんは元気?」
と聞くと、随分前に亡くなったよ、と言った。
そして、今 自分はひとりだと。
話しながら、何故か一緒におでんを食べた。
イカだよ、と串に刺さったイカをくれた。
Kさんはハンペンを食べていた。
「1口頂戴」と言ってKさんの持っているハンペンをもらうと、Kさんは嬉しそうに笑った。
妹の結婚式が近いんだ、会ってあげてくれない?
と言おうとして、ここが葬儀場だと思い出し
後で連絡先を聞いて後日話そう、と思った。
次の瞬間、会場内にもの凄い突風が吹き荒れた。
『窓を閉めろー!』と誰かの声がする。
やっとの思いで窓まで辿り着き、閉めると
息子の泣き声が聞こえた。
母に預けていたことを思い出し、母の元へ駆け寄る。ベビーカーの中にはご機嫌な息子が居た。
「起きたの〜おはよう」と抱き上げて
Kさんに会わせようと足を1歩踏み出した、
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ところで目が覚めた。
不思議な気持ちだった。
記憶にある限り、Kさんの夢を見た事は1度もなかった。それもそれで不可解だ。
モゾモゾ起きだした息子を抱き上げて、思い返してみる。
両親の離婚前後は、夫婦喧嘩が絶えなかった。
ママとパパ、どっちについてくるかと聞かれる度に「家族みんな、一緒がいい」と泣いたのを覚えている。私の"慎ましくも幸せな家庭"への執着はこれが始まりだったのかもしれない。
結局、私と妹は母に連れられ、Kさんを置いて家を出た。
夢を見なかったのは記憶に蓋をしていたからだろうか。
以下は私が随分成長してから聞いた話。
Kさんは、ズバリ優しいだけの人だった。
悪く言えば対立を嫌い、嫌なことからは逃げる人だった。
義母(Kさんから見た実母)は気が強く意地悪で非常識な人だったそうで、結婚式では名古屋恒例の派手婚で3回のお色直しの予定が、「うち(新郎側)はお金がないからお色直しはするな」と言われ両家巻き込んで大揉めする結果となった。
それでも若かりし母は愛があれば乗り越えられると思っていたし、早く子供が欲しかった。
数年の不妊治療と何度かの流産の後、私が産まれたが、退院したその日に義実家に呼び出され、母は炊事をさせられた上に、義両親の使った残り湯で身体を洗った。
Kさんに泣いて不満を訴えても、「ごめん」と困り顔で笑うだけで、いついかなる時もKさんは空気だった。
Kさんは出世争いが嫌いだった。
母は10万の手取りの内、家賃を抜いた6万で生活を強いられた。あんなに苦労して妊娠した私と違って、年子のタイミングで妹を授かった。
喜ばしかったが、6万円で4人は生活していけない。Kさんに「働かせてください」と言うも旦那ひとりの給料で妻と子を養うのが当たり前の世代、専業主婦が当然だった。働きに出るなんて外聞が悪いと拒否された母はついに決断した。
離婚である。
成立までは、かなり時間がかかった。
最終的に離婚協議で裁判所を挟むこととなったが
その呼び出しをバックれた事で離婚成立。
ここまでが私が3歳、妹が2歳の頃の事。
その後数年、母は私と妹を必死に育てながら
馬車馬のように働き、今の父と出会う。
その間もKさんは 天然なのか確信犯なのか、面会の場に新しい彼女(?)を連れてきたり離婚したはずの母に金の無心...ではなく米の無心をしに来たりと、なかなかのクズっぷりを発揮した。
こんな風だから、私はKさんに対して...
また自分のルーツに対してネガティブな感情を抱いていた。
妹は違ったようで、たまに「会いたい」と言っていた。
なんで?と聞けば、「こんなに大きくなったよーって見せたくない?」と言われた。
あまり思わなかった。
家族を失ったのは自業自得、むしろ自分達は被害者だと考えていた。
捻くれている私は、"あんな風にはならないぞ"としか思っていなかった。
しかし、だ。
ここに来て変化があった。
息子を授かり、命懸けで産み、必死に育てる中で
私は"子に対する無償の愛"を身をもって知った。
私を命懸けで産んだのは母なのでKさんが何かを痛めたりしたわけではないけれど、それでも彼は昔、私達を確かに愛してくれていた、と思う。
あの卒業式の日、どんな気持ちでいたんだろう。
会社に休みを取り、私達が居なくなったアパートでひとりで目覚めて ヨレヨレのスーツを着て、
学校までひとりで、来たんだ。
そしてあそこに立っていた。
私を探していた。
聞いてみたい。
どんな気持ちだったの?
もう会えないかもしれない事を、
知っていたのだろうか。
今の私は、その時の彼の気持ちを想像すると
胸が苦しくて張り裂けそうになる。
探す手立ては、最早戸籍を辿るしかない。
探そうと言う気はある。
会いたいと言う気持ちもある、少し。
ただ、イマイチ足が重いのは何なんだろう。
いつか"その後"が書ける日がくればと思う。
もしくはこの文が何かの奇跡で、
Kさんの目に触れる事があれば...
と淡い期待さえある。
つくづく、親は子によって育つものなんだなあと思う 齢27歳、梅雨入り前の午前2時。
おわり