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さかさ近況㊷


芥川賞落ちたよ

 残念ながら『海岸通り』は芥川賞とれず。あんまり自信はなかったとはいえ(人によってはずいぶんボロクソに言われた)、やはり可能性があると言われてとれないと悔しい…。
 待ち会したときの編集の方の喩えが秀逸で、芥川賞の候補になるとは「なんか隣の隣のクラスのあの子、お前のこと好きらしいぜ」と言われるようなものだということ。「は?知らねーし」とか言いながら、なんとなく気になって、合同で授業するときなんか、その後姿を探したり、あの子がかいたらしい美術の作品を見て「へえ、いい絵じゃん」とか呟いてみたり…でも、なんか知らないうちに知らない誰かと付き合いだして、勝手に振られた気分…。「べ、別になんとも思ってなかったし?」とか嘯いてみるけど、あの子が知らないあいつと楽しそうに話してると複雑な気分…。な、感じでした。

 せっかくの機会なので、「芥川賞候補作全部読む」とか「選評全部読む」とかやってみた。なんでみんなこんなチャンスを有効活用しないんだ…!という貧乏性なので、とにかく思いつく限りどんどんやるのだ。
 これは、けっこう今回の候補者は多い気がしていて、松永さんは「オモロイ純文運動」Tシャツまで作ってたし(それで受賞しちゃうんだからね!)、向坂さんは、受賞してないけど「受賞スピーチ」を動画にしていた。こういうのを内輪ノリの冷めた目で見る人もいるかもしれないけれど、内輪にすら置いてかれてるのがこの界隈だと思うので、芥川賞なんてメジャーな祝祭は、これぐらい使ってどんちゃん騒いでいった方がいいと思うのだよ。

 とはいえ、私はひどく凡人なので、結果が出る一ヶ月超の時間はソワソワしてしまい、主に原稿執筆がかなり停滞してしまった。これは本当によくなかった。次回選んでいただくときは、結果発表まで私には伝えないようにお願いいたします(何様)。

最近読んだもの、見たもの

 ずいぶん時間が空いてしまったから、読んだ本は多い。思い出せるものだけ。
 ミン・ジン・リー/池田真紀子訳『パチンコ』(文春文庫)はとにかく面白かった。在日韓国人の四世代にわたる物語、というのが穏当な紹介の仕方なのだろう。日本ルーツの私がこう言っていいのかはわからないが、力強く、そして何より物語としてとても面白かった。文体は、完全な三人称で、視点があっちこっちいく流れは久しぶりで(最近あんまり見かけないですよね)はじめは戸惑ったが、読み進めていくと、やはりこれは、ソンジャの物語なのだと確信した。この話において、人は簡単に死ぬ。そして、その死に方が特別に描かれることはなく、等価だ。ソンジャの息子のモーザスは、「人生はパチンコに似ている」と思うくだりがある。「あらかじめ定められているよう」で、「運まかせの要素や期待」がある、と。パチンコを比喩的に表現するのは作中そこだけなのだが、彼らは運命に振り回されるように生き、死んでいく。この三人称の書き方が、彼らの感情を抑制し、ことさらドラマチックになることなく、それでも心に響くように語りかける。それが見事だった。個人的には山崎豊子の『大地の子』を思い出した。この抑制は歴史的部分でもそうで、かなり日本人・韓国人双方に配慮して描かれているように思う。ともすれば、やや日本よりの書き方のようにも見え、これはちょっと判断に迷う描写だった。また、これを果たして日本の我々が手放しで楽しんでよいのか、というところも(これは読者側の問題だが)考えさせられた。
 金子玲介『死んだ石井の大群』(講談社)もどんどん面白く読めた。どんな話か、というのも言ったらおもしろさに関わってくるので、まずはそこから楽しんでほしい話だった。『山田』とはまったく違う話なので(あれ、でもスターシステムあった?)これから読み始めてもぜんぜん大丈夫なのだけど、どちらも「死ぬこと」「生きること」についての物語だったから、どちらも読むとよいと思う。ミステリ、という枠で見ると、最後の解決部はちょっと禁じ手でないのか?という気もするのだが、そこは御本人は百も承知の上で書いているはずなので、「どうだこれでも面白いだろう」という、とても挑戦的な小説であった。
 山尾悠子『初夏ものがたり』(ちくま文庫)も面白かった。たぶん、これは初めて読んだはずなんだけど、山尾悠子はこんな小説も書いてたのか、という驚きのある作品であった。「タキ氏」という、生者と死者をつなぐビジネスをしている物語、という設定はファンタジーであるが、非常にストーリーが明快で、とても読みやすかった分、ややいつもの山尾節は薄められている感じがする。本人もこれを「ようやくちょっと好きになってきた」みたいな言い方をしているように、毛色が確かに違うけど、ひとつひとつの文章が本当に丁寧なんですよね。以前、岸本佐知子氏と柴田元幸氏が、幻想的な物語を書くときは、細部を大切にしなきゃだめですよね、みたいなことを対談していたが、まさにそのとおりだなと思う。
 人文書ではジョン・C・トーピー・藤川隆男監訳『パスポートの発明』(法政大学出版局)が面白かった。トリビア的に発明品としてのパスポートを追っていくのかと思いきや、フランス革命から始まる国家の統制とアイデンティティの話であり、なかなか歯ごたえのある本だった。すべてクリアに理解できた訳では無いが、いかに国家が個人の移動を掌握し、独占することになってきたか、フランス革命、アメリカ建国、ナチス・ドイツなどの歴史的事象から語られる。歴史上、現代ほどこの「移動」について制限がかけられている時代もないかもしれない。ナンセンパスポートの話は興味深い。マーク・リラ『リベラル再生宣言』(早川書房)も今更読んだのだが、リベラルのアイデンティティ・ポリティクスが、彼らの弱体を生んでいるのではないかという説は、わからんでもない。個人の属性について大事するあまり、かえってそれが連帯を弱め、分断を招き、政治力学において弱くなってしまい、結果的に大きな目標にたどり着けない、というものだ。あまりわかりやすい話は眉につばをつけながら聞かなければならないのだが、先日の都知事選なんかをみていると、リラの言うような戦い方は(勝つためには)大事になってくるだろう。とはいえ、それは、目的達成のためには遠回りながらも必要なことだと思いつつ、それでは例えばパレスチナで現在進行している虐殺は止められないし、彼の方法は通用しない(長い目で見れば止められるが、その間の犠牲を無視してよいのか、という矛盾をはらむ)。
 日系人収容所の話も資料で読んでいる。デヴィッド・A・ナイワート/ラッセル秀子訳『ストロベリー・デイズ―― 日系アメリカ人強制収容の記憶』(みすず書房)は非常に力作であった。多くの日系人のインタビューから当時の状況を紐解いていくという研究は、高齢になり体験者が減っていく中でとても重要なものだ。特に、20世紀初頭の渡米時からあった排斥的な空気の醸成が、この収容所に繋がっているという歴史事実の流れを丁寧に追っていくところがよい。そしていまだに、「あの収容所は必要だった」論がアメリカではそれなりに勢力があるのがいかんともしがたい。水野剛也『「自由の国」の報道規制 大戦下の日系ジャーナリズム』(吉川弘文館)は、日系人社会で発行していた新聞及び、収容所内でのメディアに関するもの。日系人社会で新聞が発行されていたことは知っているが、真珠湾攻撃の翌日にはすぐに当局が対応しているとは驚いた。それだけ目をつけられていたということだし、前掲した『ストロベリー~』で指摘されていたように、根深い日系人移民への排斥感情が官民問わずあったということなのだろう。
 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)もよかった。人から頂いて読んだのだが、ロシア文学研究者の著者が、ロシア国立ゴーリキー文学大学での思い出を書いたエッセイ。ちょうどウクライナ侵攻が始まる前に書かれたものだが、クリミア併合等の話から今につながるものがたくさんあり、そういう意味でも面白い。が、私はやはり、著者が体験した、文学を愛する人たちの生き生きとしたエピソードだ。とりわけ、アントーノフ先生の話はよかった。終章の「大切な内緒話」で語られるアントーノフ先生との語りと沈黙について、様々な感情が閉じ込められ、でもたおやかに存在していることが、よく伝わってきた。いかなる師も持たずにやってきた私であるが、若い頃にこういう先生との出会いをもてなかったことを、いささか後悔した。
 アニメは、『しかのこのこのここしたんたん』を途中まで見ていたのだが脱落した。私が大地丙太郎好きのせいなのが悪いのだが、その内容にこのテンポは遅くない…?とどうしても思ってしまい、先を続けられなかった。これから面白くなるのであればまた挑戦したい。『負けヒロインが多すぎる!』は、なんとなく見始めたらやたらよかった。メタ・ラブコメ的なんだけど、とにかく画面の作り方やつなぎ方が良いので、ストーリーをおいといてもするする見てしまう。「こんなにスラスラコミュニケーションのとれる主人公に友達が一人もいないのはオカシイ」と思いつつ(きっとそういうツッコミは原作でもあるのだろう)、ほどよく調整された甘酸っぱさに続きが気になる。

覆面作家かくあるべし

 某新聞に「顔非公表」と書かれた坂崎であるが(なんだそりゃ)、今回はその顔出しについての記事もよく見た。

 賞をとった一穂ミチさんもそうだし、麻布競馬場さんも猫のお面で、まあそのついでという感じで坂崎も紹介されておった。
 あのコメントは事前の囲み取材のときのもので、候補段階でも、受賞したときのためにそんなこともするのだ。すべてお蔵入りになるところが、使い道があってよかった。で、顔は出さないんですかみたいな質問は予期していたので予め用意していたコメントが3つ。
①本業に差し支える
 これは兼業作家あるあるだと思うのだけど、快く思わない人もいるので、そういうノイズは減らしたいじゃないすか。これがホントに一番。だから、石油王が十億円ぐらいくれて「好きに書いていいよ」と言われたら、特にこだわるわけでもない。
②作品を読んでもらいたい
 これは微妙な答え方をしてしまったなと思うのだけど、私はテキスト原理主義者ではないので、そこまで徹底的に作者と切り離すべきではないだろうと思っている。ただ、同時に小説は読者の心も映すものだと思っとる。例えば私の小説の何かしらを女性的と感じるとしたらば、それはあなたの心の中にそのようなテーゼがあるのだ、というのは読者の心得としてもっていてもよかろうと考えている。私は意地の悪い作家なので…
③報道の実名主義に物申す
 さすがにこのコメントは採用されなかったが、私は以前からマスメディアの無邪気な実名主義に疑問をいだいているので、そういう反骨心もある。おいおい、なんでもかんでも君らに教えるわけじゃねーぞ、みたいな。
 以前、地方文学賞がどれだけ実名や写真などを公表しているかについて調べたことがある。

 結果、新聞社主催の文学賞はほぼすべてそれを公表していた。例外がほぼない、というのはなかなかだ。都道府県・市区町村はおろか、その先の住所まで出す新聞社もある。明治時代か。どことは言わないが、実名を「非公開」とした受賞者の翌年から、「※発表時に実名とペンネームを掲載」とわざわざ注記までつけるようになった文学賞もある。正直、時代に逆行していると言わざるを得ない。
 彼らの言い分としてよく聞くのが、「実名=証明」である。実名や写真を出すことで、記事に信憑性が増すというものだ。例えばスポーツ新聞のデスクがしゃべってるだけの記事よりかは、「政府関係者」としただけでも、信憑性が増すし、所属や名前が出た方がより確度が高くなる。これは社会部や政治部が強いメディアならではの考え方だろう。一理あるとは思うが、犯罪の被害者や一般人まで実名で報道する理由にはならない。「匿名」というものを彼らは本当に嫌う。それはなぜか。共同通信の記者だった浅野健一氏のインタビューが興味深い。

浅野氏  理由はないんです。昔からそうやっているからだけですよ。特にそれが悪いと思っていなかったでしょう。昔からずっとやっていた

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ab4096bb4150becd5244289a7be35bb8c6e73044

 浅野氏は対比的にスウェーデンの匿名報道主義を例に挙げているが、上記記事を読んでいただくとわかる通り、日本のメディアの「慣例」の力は強い。小説が偉いなどと思っているわけでもないが、しかしそれは「慣例」と呼ばれるものからいちばん遠くにあるべきではないだろうか(実際は知りませんが…)。そういう意味での、私のささやかな実験的な抵抗である※1。

 一穂さんの朝日に寄せた受賞エッセイはなかなか皮肉がきいていて、メディアに顔出ししないことについて書いてあるのだが、最後に、「これだけ顔出しのことを聞かれ、作品のことに言及がないのは私の力不足である」みたいなことが書かれていた。そーいうとこだぞ、という感じである。

*1 とはいえ、英語圏の出版分野はむしろ顔出ししないとやってけない感じがある。エージェント制などもあるだろうが、ここらへんは自身のアイデンティティの捉え方の違いもありそうだな、と思う