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さかさ近況㉗

創元SFの選評を読んで

 第14回創元SF短編賞の選評が公開された。

 自分が読んでいる作家の方や、お名前をたびたび拝見する編集の方に自作を語ってもらうなんて、もうそれだけで昇天や!という気持ちになるので、公募はやめらんねえよなァ。
 各所で、選評のわかりやすさ、的確さが言及されているが、創元さんのいいところは、賞の選評を雑誌だけでなく、オンライン上に残すところだと思う(前からではなかった気がするけど)。過去の選評を見ても、かなりわかりやすく基準が示されていて、これはけっこうブラックボックス化しやすい小説などの公募において公平だと思うし、何より小説がうまくなる(気がする)。
 拙作「ベルを鳴らして」に関する選評は、お二人とも共通して「SFの賞に応募するんだからSFをまっすぐ書こう」というところに尽きると思う。前にも書いたけど、これは、何がSFか、という喧々諤々の議論ではなくて、「お前の思うSFの提示の仕方」という話であるのだろう。その点で、お二方が「抑制」と言及されている部分の取り扱いが、今回の作品ではうまく機能していなかったという点だろう。もりみーの「太陽の塔」だって、あの内容で日本ファンタジーノベル大賞だしな…と思ったりもするけれど、たとえば創元の過去受賞作の「吉田同名」と違うのは、この作品が「最初の方はよくわかんないけど”実は”SFだ」という構造になってしまっていることだろう。正直に言えば、これは私の予期している読み方ではなかった。「実は」というトリッキーさを求めないために、結末部においても、SFらしさを出さないように苦心しながら書いたのだが、確かにSFの冠された賞においてこの作品が出されると、「実は」の部分が強く働いてしまうだろうというのはその通りだと思う。
 面白いと思ったのは、後半部において、宮澤さんと小浜さんは、拙作に対する改稿点の指摘が微妙に違うというところだ。
 宮澤さんは、「序盤から違和感のある描写をちりばめ、「表面的なストーリーの裏に何かあるのかも?」という期待感を醸成していけば」という道筋を示していただいたが、小浜さんは「未来予知と分かるような方針で改稿を提案することはできる」としながらも、「それがこの作品にとって良いことなのか、さらに著者の今後の活動方針にかなっているのだろうか」というためらいを覚えたという。これは恐らく作家と編集者の考え方の違いで、宮澤さんは作品そのものの質を高めるための提案であり、小浜さんは(おそらく)今までの私の作品などを踏まえた上で合っているかどうかという別の視点の考えをもっておられるのだと感じた。私は作品は作者に先行するという考えだが、しかし不可分のそれを考えたとき、小説というか、創作というのは奥深いと思える選評だった。作品の質を高めるというのは、いったいどういうことなのだろうか、深々と考えてしまった。その意味で、もしかすると私はまだ、「ベルを鳴らして」の作品のもつよさを引き出せていないのではないかもしれない、と思った。作家自身の強みと作品がぴったり一致する瞬間というものを、もう少し私も探っていきたい。
 それにしても、「将来作者の商業短編集が編まれたらそこに含まれておかしくない、いい小説だった」と宮澤さんに言ってもらった時点で、試合には負けたが勝ち星をひとつもらった気分である。おかげさまで小説現代7月号に載っているので、果たしてこの作品がどれだけのものか、君の目で確かめてくれ!電書もあるよ。

最近読んだもの、見たもの

『わたしたちの怪獣』久永実木彦(東京創元社)

 評判がいいのは知っていたのだけれど、表題作を雑誌掲載時に読めずにそのまま来てしまった。読み始めるときは、私の中で期待が高まりすぎていて、ちょっと不安だったが、読了後、そんなのは驕った読者の考えだと思い知らされた。いや、ほんとによかった。
 久永さんの語り口はデコデコしてなくてとてもいい。だから、この物語もさらりと読めてしまう。が、多くの人が語るように、「わたしたちの怪獣」のラストは希望に満ちているものではない。諦めがあり、怒りがあり、悲しみがある。だけどその読後感がどこか爽やかな印象を受けるのは、ひとつには文体、もうひとつは主人公の造形だろうか。どれも一人称から語られる物語の主人公の境遇は悲惨だ。でも、純文学的悩ましさはそこにはなく、映画の登場人物のような絶妙な距離感がある。そういう意味では、各話にまたがって出てくる悪役的人物(「夜の安らぎ」の優美、「『アタック~」のあけびの母親)もかなり意図的に配置されているのだろう。エンターテインメントとしての面白さと、物語が内包する楽しさ、そのバランスが見事なのだと思う。
 お気に入りは「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」。同名の映画を上映中に町中にゾンビが徘徊する、という筋書きもさることながら、映画が解決の手法に使われないのがいい。私のような凡百の作家なら、映画の中の出来事を使ってしまいそうだが、それをせずに迎えるラストが美しい。

『ラブカは静かに弓を持つ』安壇美緒(集英社)

 話題になっていたので。
 JAS***っぽい団体の職員が音楽教室に潜入調査をする、という設定がまず面白いに決まっている。最初の説明っぽいやりとりはちょっと辟易したけれど、ミステリとして読んでもおもしろかった。少年期のトラウマの話が、正直物語にあっていたかというと、うーん、という感じがするのだけど、ラストも含めてソツがない。ただ、ソツがない故の物足りなさ感はどうしてもある。でも、これは書いているからこそわかるのだけど、そうとう難しいよね…。

『水星の魔女』

 今週が最終話のようだが、ちょっと「んん?オルフェンスか?」という感じで、思った方向と違う流れになっていて、ん゛ん゛ん゛ん゛、と唸っている。もちろん面白いんだが、面白いがゆえに、なんか違うというか…。スレッタちゃん、物分かりがよすぎでは…。
 前半と後半のキャラの変化、というところでは、『千と千尋の神隠し』を思わせる。千尋も、前半はお母さんにしがみつく、「現代っ子」ベースで描かれていたが、後半は宮崎ジブリに特徴的なスーパー人間になってしまう。この乖離は公開直後から、というか製作の時点で指摘されていて、当時のスタッフのひとりも言及していた(アーカイブがどこかに残っていたのだが見つけられない)。水星の魔女も、このストーリーラインは初めからだったのか、畳み方が速すぎて、スレッタがそれでいいんか、おぬし変わりすぎでは、という感じになってしまっている、と思う。「魔女」という設定も生かし切れていない感もある。大人数でつくる作品はそこの部分が難しそうで、小説というのはその点気楽である。
 だけどそこをごちゃごちゃ言っても観させる演出と物語はすごいなと思うし、これからのガンダム作品は大変だ。

読んでいただきありがとうございます

 6月の坂崎短篇を読んでいただき、ほんとうにありがたい。

 宣伝が多いのは、ここら辺の作品の評価で、今後お仕事をもらえるかとか、自著を出せるかが決まってくるので、読んでよかったよ、という人はぜひネット上に放流していただきたい…オレも放流するから…。
 スピン自体の勢いもあるだろうが、「ニューヨークの魔女」は、恐らく私の作品を初めて読んだ方からの感想が多いのもうれしい。この作品はいろいろてんこ盛りにしてるので、刺さる部分がたくさんある人も多いのではないだろうか。参考文献をあげられなかったが、電気椅子関係は以下の資料を参考にしている。エジソン悪いヤツだな!というのがよくわかる本である。

 今回の近況の冒頭にあげたが、「ベルを鳴らして」も気に入っている作品だ。すごい短時間で仕上げた作品だなと覚えていたけど、ちゃんと計算すると、5日で仕上げている。

 締切最終日に間に合わせる胆力よ…。もちろんその前の下調べに時間をかけているのもあるが、そもそも私はプロットを立てないので、行き当たりばったりでこの字数をここまで書けるのは自信になった。しかもこの時期に、文學界の短編「母の散歩」、「ニューヨークの魔女」、「僕のタイプライター」を仕上げている。それと並行して年末年始のあいさつ回りやお節もちゃんとつくって子供も遊びに連れに行ってるのだから、我ながらすごいと思う。専業でもやってけるんじゃないか?(やってけないよォ)。

 とにかく、読んでくれるだけでなくて、感想をくれる人は神様かと思ってしまう。私もなるべく目に触れて面白かったものはこうして書いていきたいと思う。一攫千金狙えなくても、創作している人がそこそこ暮らしていける世の中を目指していこうぜ…