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さかさ近況㉛


最近出た短篇について

 9月はいくつか出ているので、ちょっと解説してみる。私はスーパーインフルエンサーじゃないので、ちょくちょく宣伝しないと、「え、出てたんだ?」みたいな現象が起こるので、ご容赦願いたい。

「いぬ」(『水都眩光 幻想短篇アンソロジー』(文藝春秋))

 文學界5月号の特集で書いたもの。「私」が、母の遺品を整理しているところにクリーニングの預かり証を見つけ、それをとりにいったところ、「架空の犬」を渡されるという物語。
 こちらの掌編をベースにしている。

 当初の題名が「母の散歩」だったとおり、主人公(たち)が長い散歩をしている物語だ。散歩、というのが好きで、散歩は基本的に目的地をもたない(もしくは目的地は自分の家である)ことがおもしろい。無目的であることがその行為の中に必然的に内在されている感覚がある。私にとって「幻想」は、「目的」と対極にあり、しかしそれを現実のコンテキストの中で描くとどうなるか、という執筆動機はあるが、まあいつもそこまではっきり構想して書いているわけではない。文字のバランスなどを気にするので、他の作品のタイトルなども考慮しつつ、当初の予定の「いぬ」に改題した。開いているのは、「犬」だけではない言葉ともかけているからである。

「きゅうりうる」(ffeen pub vol.2)

 好きに書いていいですよ、と言われたので好きに書いた掌編。
 ツイートもしたが、「できない」ということについて最近関心がある。例えば職場に「できない」人がいるとするときに、これは誰の責任なのだろうと考えるようになった。単純に考えればその本人の責任であるように思うが、果たしてそうなのだろうか。努力不足、勉強不足。そういう面もあるだろうが、すべての現象はスペクトラムであり、一意にその原因を求めるのは違うよなあと思う。でも周りは困っちゃうわけで、よほど変な職場でない限り、フォローとかアドバイスとかするんだけど、それがうまく相手にはまらないとあんまし良い結果を生まない。たまに嫌な先輩とか同僚が出てくる物語もあるけど、意外に現実世界はそうでもなくて、なんとかしようとあれこれしてから回っていく場合も多い。善意は煮詰めれば最大の悪意になりうる。
 みたいなことを考えながら書いてみた。だいたい「こういうの書きたいなあ」と思って書き始めたものは私の場合はだいたい挫折するんですが、これは珍しく書けた作品。主宰の嶌山さんが「一筆書き」と評してくれたように、2日で一気に書き上げつつ、文章にかなりこだわって書いた、のでもうちょい読んでほしいなあ。

「イン・ザ・ヘブン」(小説現代10月号)

 アメリカが舞台で、禁書運動家のママに学校をやめさせられた主人公が、ホーム・スクーリングで出会ったアレンという若い教師に影響を受けるのだけど…という話。これはけっこう書き上げたのは早くて、7月ぐらいにはもう初稿はできていた。先に「ベルを鳴らして」を預けていたので、そっちが採用されて、これは次に回された感じ。紹介動画もつくってみた。


 「地獄はどこにでもある。内とか外とか関係ない」という書き出しが決まっていて、どんな物語になるかなあと思いながら書き始めている。感じだった気がする。「始祖サンド」は初めから出てきていたネーミング。私は海外を舞台にする作品を書くことが多いけど、そういえば現代の外国を舞台に書いたのはこれが初めてかもしれない。とにかくシライシユウコさんの扉絵がすてきすぎるので、実物を見てほしい。紙版は手に入りにくいので、入手できなかったらKindleとかで読んでね。

最近読んだもの、見たもの

 今回はめっちゃ読んでる。

『贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』矢野智司(東京大学出版会)

 めちゃんこおもしろかった。あくまで「教育学」としてなのだけど、「純粋贈与」の視点から教師を捉え直し、漱石の「こころ」と賢治の「銀河鉄道の夜」に代表されるような自己犠牲的な物語を解き直す意欲的な本だった。
 教育を「発達」的なものと「生成」的なものの二元的に分け、目的意識があるような前者の教育論がはびこっているなか、後者の「遊び」に収斂されるような蕩尽的行為が教育として大切ではないか、というようなことを、漱石と賢治の作品から論じている。「純粋贈与」は、交換を原則としない自己犠牲的な行為であり、「こころ」の先生や、ジョバンニを、そういった形から読み直すことがなかなか新鮮であった。
 一方で、「テレビゲーム」などの「あそび」を、その二元論の中に安易に組み込んでいる箇所は気になった。書かれたのが少し古いのもあるが、そこらへんはもう少し今であれば捉えなおせる部分があるのではないだろうか。

『黄金蝶を追って』相川英輔(竹書房文庫)

 SF、というほどサイエンスしていないのだけれど、ほのぼの系でもなく、いろいろなガジェットとアイデアを駆使した良い短編集だった。「ハミングバード」がやはりよかった。終始物語の本題を外れるような書き方がおもしろい。「シュン=カン」は「俊寛?」と思ったら思った以上に俊寛で、こちらもおもしろい。「星は沈まない」とのちょっとした関連もにやりとさせられる。
 面白いのだけれど、自分の評価軸とは常に半音ずれているような感覚があって、なにかなあと考えて思いついたのが、テレビシナリオっぽさがある、ということだった。映像的、というのとはちょっと違って、演劇的、という方がまだ近いかもしれない。舞台があり、小道具があり、会話によって進行していく物語。案外、こういう小説が書ける人は今は少なくなっているかもしれない。次回作も楽しみにしています。
 で、一応この本は献本でいただいたので、明記はしておきます。言い訳っぽくなるけど、そうしなくても買おうと思っていた本でもこう書かないといろいろ抵触しそうになるのはなんかやだなあ。

『代わりに読む人1 創刊号 特集:矛盾』友田とん編(代わりに読む人)

 矛盾、という特集が面白くて読んだ。14人の矛盾をテーマにしたエッセイとも小説ともいろいろある作品集。
 特に好みだったのがはいたにあゆむ「環感勘歓」、今村空車「芝生の習作」、小山田浩子「こたつ」、陳詩遠「ありえない秩序」。「環感勘歓」:踏切のBPMと音楽を合わせるってかなり面白い試みだと思うし、「文字が大の苦手」という人が書くという文章の矛盾はかなりよかった。「芝生の習作」:今村さんはずっと大江健三郎を読んでいるのはTLを眺めて知っていたので、そこからあの芝生が燃える映像をもってくるところがおおっと思った。「こたつ」は、この中でいちばん「矛盾」を丁寧にあつかった掌編だったと思うし、「ありえない秩序」は、私は自分が理系的思考の人間ではないことを自覚しつつ、物理学の「無矛盾」からころころ転がるエッセイがいちばんエッセイらしくてよかった。

『時ありて』イアン・マクドナルド/下楠昌哉(早川書房)

 『時ありて』という詩集を古本市から見つけ出すことから展開する物語。ああいうSFかと思いきや、こういうSFだった、という感じになる(すごいネタバレになるので書かない)
 ただ、筋自体はそこまで新しいものでもない(新しければよいのでもないのだけど)。そして大盤振る舞いにネタが詰め込まれており、これはちょっとお腹が一杯になる、にしてはノヴェラなのでやや物足りなく感じる。面白くなくはないのだけど、少し評価に困る作品だった。

『アクティング・クラス』ニック・ドルナソ/藤井光(早川書房)

 前作の『サブリナ』もそうだけど、嫌な気持ちになるのがわかっていながら読んでしまう物語も珍しい。即興劇のワークショップに参加する人々の話、ということは知っていたけど、いざ読んでみると思っていた以上に現実との境が不明瞭で、そして登場人物たちがどん底でやりきれない。
 ドルナソ論はもうきっとどこかに出ているんだろうけど、コマ割りは単調ながら、人物のアップが多用される感じは小津安二郎の映画づくりとちょっと似ている気がする。個人的には最後の「組織」うんぬんのくだりが蛇足のように感じたのだけれど、それも含めて現実が侵食されているものだと考えると、読んでて頭がおかしくなりそうな物語だった(褒めている)。

『オオカミの時間:今そこにある不思議集』三田村信行/佐々木マキ絵(理論社)

 とにかく三田村信行は好きで、有名な『おとうさんがいっぱい』(理論社)もそうだけど、三部作に位置づけられるだろう『風を売る男』『オオカミのゆめ ぼくのゆめ』は、三田村作品の中で、というか児童文学の中でも稀有な作品であろう。
 「オオカミ」は、三田村作品の中で、現実と異界をつなぐ(壊す)重要なキーワードになるけれども、今回は「オオカミ」や「ピストル」などでテーマが集められており、三田村作品の重要なファクターになるものが集められている感じだった。印象的だったのは、「歯ぬけ団地」「オオカミの時間」。
 ただ、書き下ろしが多めだったのだが、期待をしすぎたせいか、少々肩透かしの感も否めなかった。特に、子供の感覚がちょっと古い感じがするのが気になった。『オオカミのゆめぼくのゆめ』の表題作と今回の「オオカミの時間」は対になる作品だと思うのだけど、前者は最後に銃でオオカミを撃ち抜くというラストに対して、「オオカミの時間」でオオカミのきぐるみをかぶる主人公は山手線という円環の中で逸脱する瞬間を発見する展開はさすがなのだけれど、そこに至るまでの学校の描写がなんというか80年台を思わせて、うーん、となった。
 それにしても、お年なのでしょうがないのだけど、あとがきで「最後の短編集」と書かれるとぐっとくるものがある。

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』斉藤倫(福音館書店)

 子供向けの詩の入門書的物語、という感じなのだけど、さすが斉藤倫、という感じで、これは大人こそ読むべきだろうと思えたものだ。「ぼく」の家に「きみ」がやってくる、という体で物語は進み、各章ごとにいくつかの詩が紹介される。「ことばのじゆう」から始まるのがよくて、そこで藤富保男が紹介されるのが、本気だ(とはいっても、藤富の詩を私はこれで初めて知ったのだけど…)。詩とはなんぞや、みたいな話ではなくて、ことばとはなんぞや、が対話で描かれるのがソクラテスっぽいし、「はじまり」の物語だ。こういう本で詩とはじめて出会うのは本当によいと思う。
 どうでもいいけど、この「ぼく」は、「きみ」のお父さんで、故あって別居しているところを訪ねていると思いながら読んでて、おお新しいなと思ったんだけど、それは違った。

ffeen pub

 vol.1、2と通して読んでみた。印象に残ったのは旗原理沙子「あどけない」十三不塔「わたわた」波木銅「シュガークラッシュ」。「あどけない」は、何気ないすれ違いの言葉からごろごろ転がる展開が、兄の存在が不気味でありながら、かといって語り手も信用できないバランス感がこわよかった。「わたわた」は、夫と妻の交互に展開されるやりとりが、ぬいぐるみのもつ「存在」の曖昧さとリンクしていてこわかった。「シュガークラッシュ」は砂糖の暴力性がよい。
 そう、全作通して読んでみると、どうもなんらかの暴力的なにおいを感じる作品が多いことに気がつく。特にテーマは与えられてないはずなので、この共通性は気になる(私の「きゅうりうる」もそれに近い)。暴力的な作家が集まったのか、人間の存在の暴力性(加害性)が気になる作家が集まったのかもしれない。

『サイダーのように言葉が湧き上がる』

 思ったよりも青春色の強い映画で深いダメージを受けた。
 ぜんぜんおもしろかったのだけど、なんというか、繊細すぎないか若者、という気にはなった。チェリーの引っ込み思案はわからなくもないけど、なんというか、そこまで引っ込み思案な人はああいうバイトはできんだろうという気になるし、作劇上しかたないとはいえ、引っ越しのことを言い出せないのはちょっと自分勝手すぎないかと思ってしまった。見ててどきどきするというより、イライラする繊細さは、私が歳をとってしまったということなのかもしれない。
 というか、そういう引っかかるところの多い映画で、スマイルは居住地バラして配信やってだいじょぶか!とハラハラしちゃうし、ビーバーはまじ犯罪だろうと思っちゃうし、ちょっとこの時代にあまりにもストレートな恋愛映画じゃないかい、とかなんかそういうところが気になりはじめちゃうといかんなあと思ってしまった。

とりあえず眉だけ

 という言葉が好きだ。
 化粧というのは他の国では知らないが、日本では社会的要請に基づいて機能することが多く(『化粧の日本史』(吉川弘文館)が詳しい)、めんどうだなあ、でもノーメイクで外出るのも嫌だなあ、とりあえず眉だけ描くかぁ、という折り合いの付け方が気になる。「とりあえず眉だけ」というのは、社会への迎合であり、そして反発のように思う。「とりあえず眉だけアンソロジー」を募集したら、けっこういい作品集になるのではないだろうか。

 以上である。いろいろ〆切がよろしくないのにたくさん書いてしまった。