あな

 この夏は災厄の年だった。
 まず初めにヤモリが死んだ。温熱ヒーターも買って、コオロギのMサイズを百匹用意した直後だっただけに、落胆は大きかった。ヤモリ自体は子供が公園で捕ってきたものだが、世話をしていくうちに、クモを食べる時の小さな口をはむはむする仕草と、そのつぶらな瞳に魅せられ、長く共に生きていく決意を固めた矢先の出来事だった。
 次にカマキリが死んだ。これも子供が連れてきた生き物だった。まだ小さな幼虫だったが、その芸術的ともいえる脱皮に感動して飼い続けた。餌も容易で、魚肉ソーセージをふりふりしながらあげると、威嚇する仕草をしながらかぶりつく姿はミニチュアのようで可愛げがあった。
 ヤモリはある朝、霧吹きの水に溺れるようにして死んでいた。その体は柔らかく、何かショックでも与えれば目覚めるのではないかと思ったが、そんなことはなかった。カマキリは最後の脱皮で羽化をしたところ、どうやらそれが体力の限界だったらしく、夜中のうちに息絶えていた。子供は悲しみ、全てを庭に埋めた。
 それから細々としたもの(カナブン、シジミチョウ、名前のわからない黒い虫など)も死を迎えたが、子供は悲しみ、その大体を、やはり庭に埋めた。庭に埋める気配のなかった生き物については、丁重にゴミ箱に捨てた。
 そして、大きなショックを引き起こしたのは、金魚とドジョウ二匹だった。金魚は商店街の縁日で、二匹のドジョウは子供の幼稚園のお祭りでとってきたもので、もう二年はうちの水槽で暮らしていた。ある日、やけに水が濁っていると思い、よく見てみると、ミニチュアの土管の中で金魚が息絶えていた。朝の忙しない時間に子供は泣き叫び、仕方がないので庭に急造の穴を掘った。子供は手を合わせて神妙にお祈りをした。バスには遅れた。
 帰ってくると、ドジョウも一匹死んでいた。朝は元気に動き回っていたように見えたが、腹をひっくりかえしてぷかぷかと浮いていた。感染症や寄生虫を疑ったが、薬がそんな簡単に手に入るはずもなく、とりあえず最後の一匹になったドジョウを別のバケツに移した。二%になるように塩分濃度を調整し、藁にもすがる思いでココアパウダーを耳かきいっぱい分入れた。お腹に効くそうだが、本当のところはわからない。最後のドジョウは、基本的には腹を見せて沈んでいたが、つつくと動き回るので、死んではいないようだった。
「ドジョウは埋める?」
 その質問に、子供は網ですくったドジョウをじっとりと眺めると、首を振った。彼はもう、人生で掘るべき穴を掘りつくしてしまったみたいだった。
 夜だったが、スマホの明かりを頼りに、シャベルで穴を掘り始めた。ひとつ掘って、ドジョウを埋めた後、バケツにいる死にかけのドジョウを思い出し、もう一つ穴を掘った方がよいか思案した。あの状態では朝までもつかどうかもわからないし、いくら掘りつくしたとはいえ、朝その姿を見た子供が何を言い出すか想像すると、やっておけることはやっておいたほうがよいと感じた。それでも少し迷ったが、結局隣りにもう一つ、深い穴を掘った。
 しかし、それからドジョウはなかなか死ななかった。毎日水替えをし、塩水浴とココア浴をさせていることがよいのか、相変わらず腹を見せているものの、時々は餌も口にし、なんとか生きているようだった。
 穴は庭でしばらくぽっかりと口を開けたままだった。洗濯を干すときに、庭のその穴が目に入ると、何だかいたたまれない気持ちになり、埋めたくなった。しかし今更埋める気も起きず、ただただ毎日水替えをし、塩のグラムをはかり、つついてつついて、ドジョウの生存を確認していた。
 それからもドジョウは生きていた。穴はいつのまにか塞がっていた。「何か埋めたの?」と子供に訊かれると、曖昧にうなずき、果たして自分は本当に何も埋めなかったのか、疑わしくなってきた。

〈了〉


☺私もこの夏、たくさんお別れをしました。