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ドーナツ・ホール

 花東傷痍軍人療養所の建物は古い。二・二八事件のころからあると言われているが、補修と増築を繰り返しており、その原型は嚴文イェンウェンの祖父も知らないだろう。旧時代のコンクリートで固められ、灰色ののっぺりとした外見は物々しさよりもうらびれた雰囲気を与えるが、中は国立の名に恥じない先鋭の義肢設備が整っている。嚴文も、右腕の義肢のために来たときは不安だったが、今はそんなことはない。
 療養所は海岸沿いに建っているが、その南側にある店はもっと古いという噂だった。療養所が「うらびれた」なら、その店は「あばら家」だった。木で組まれた小さな建物は、療養所に寄りかかるように建ち、いまにも崩れ落ちそうに見える。実際、強風の折は何度か壁がはがれた。
 嚴文は初めそれが店だと知らなかった。ましてや、そこに按摩がいるということなど、想像もできなかった。
「いつ会えるかはわからない」
 教えてくれた同じ部隊だった男はそう言った。「運が良ければ施術してもらえるだろう」
 その按摩は、どんな箇所も揉んでくれるということだった。肩や腕、腰に背中に脚に頭。そして、失った身体の一部さえも。元同僚の男は、施術を受けたことがあるという帰還兵の話を知っていた。
「そいつは地雷で右脚を失くしていたんだが、運よく店に按摩がいたそうだ。それで、こうさ」男は右脚を自分の腕で押した。彼も脚がないが、足首の先で済んでいた。「何もないところを、按摩は揉むんだ。まるでそこに失ったはずの右脚があるみたいに。ゆっくり、力を入れて。初めは何とも思わなかったのに、だんだん、本当にそこに失くしたはずの自分の右脚があるみたいで、ツボも押された気分になって」
 本当に気持ちがいいらしい、と男は言った。嚴文は興味深く聞いたが、荒唐無稽な内容に、信じることはなかった。それでもその店をのぞいたのは、好奇心の他に、ときどきある幻肢痛に悩まされていたからだった。
 按摩については、百歳を超えていそうな老婆だとか、傾国の美女だとか、はたまた聡しい子供だとか、様々な証言があった。だが、そのとき嚴文が見たのはそのどれでもなかった。性別も年齢も判別できなかった。按摩は全身を服で包まれていた。それこそ、頭のてっぺんから足の先まで。ぐるぐるとミイラのように頭には灰色のスカーフが巻かれ、全身は、くるぶしまで隠れるだぼっとした白いワンピースのようなものを着ていた。足の先は軍靴のような編み上げのブーツを履き、手には薄い手袋がつけられていた。全体としてちぐはぐな印象を受けた。女性のような身なりにも見えたが、よくわからなかった。スカーフの隙間から、瞳の輝きのようなものがのぞき、それがなければ人形のようでもあった。
「いらっしゃい」
 按摩はそう言った。思ったよりも声は低く、男性のような感じもした。
「施術ですか?」
 嚴文は何と答えればよいか迷ったが、とりあえず頷いた。按摩は奥から紙とペンを持ってきた、「まずはこちらに記入してください」と言った。嚴文は受けとったものの、その予想外の量に驚いた。普通の書類の大きさで、十枚以上はありそうだった。
「これ全てに書くのか?」
「ええ」按摩は言った。「あなたのことを知らないと、施術はできませんので」
 按摩は嚴文に机を勧めた。彼は座り、用紙を眺めた。名前、生年月日、年齢、性別、住所……一般的な質問項目の中に、「小学校の担任の性格」、「両親(保護者)について感じていること」という、突っ込んだ内容のものもあった。他にも、「あなたのいつもの朝ご飯を動物にたとえると?」、「太陽が沈む場面を書いてください」などといった、意図のよくわからないものもあった。
「これは全部埋めなければならないのか」
 もう一度嚴文は訊ねた。按摩は彼の斜向かいに座っていて、「そうです」と、やはり頷いた。「セックスと一緒です。相手のことを知らなければ、より深い快感は得られないし、与えられない」
「朝ご飯を動物にたとえることが快感につながる?」
「あるいは」按摩は付け足した。「快感といつもの朝ご飯はどこかでつながっている」
 元より療養所の暮らしは退屈だった。義肢のメンテナンスと次の命令が来るまで、することはなかった。嚴文は用紙と向かい合い、左手でそれを埋めていった。彼は元々右利きであったが、左でもそれなりに書けるようになっていた。だが、右で書いたそれとは違い、左の漢字は、タイプライターで打ったような画一的な印象があった。
 書き始めると、意外に苦もなく進められたが、「あなたの右腕の思い出は?」という箇所で手が止まった。右腕? 嚴文は按摩を見た。
「これは誰にでも訊いているのか?」
 だが、按摩は答えなかった。仕方なく嚴文はそこを飛ばして続きを書き、最後の「太平洋と大西洋で溺れるならどちらを選ぶ」について記入し終えると、また「あなたの右腕の思い出は?」に戻った。ペンを持ち直し、ペン先を紙に当て、小さな点をつくったが、それ以上のものは書けなかった。日は暮れていた。
「また今度いらっしゃい」
 按摩はそう言い、立ち上がった。嚴文も立ち上がり、質問の紙をテーブルに置き、出て行った。ざざんざざざんと、岩に波が砕ける音がして、消えた。右腕。それが失われたのはそれほど昔のことではない。しかしそれにつながる記憶は茫漠としていた。手の届くところにありそうで、霞のように揺らめいた。
 だが、嚴文が「あなたの右腕の思い出」を書ける日は来なかった。翌日に、義肢のメンテナンスが終わり、次の戦場へと召集されたからだ。
 戦場で嚴文はひたすら塹壕を掘った。掘削機が配置されない場所では、自らがスコップを振るい、掘り続けた。修理と点検を終えた義肢はまるで生まれたときからそこにあるかのように、軽快に、疲れを知らずに動き続けた。
 爆発があったのは塹壕掘りの途中で、撤去していなかった地雷があったのか、あるいは敵地からの迫撃砲にやられたのか、とにかく嚴文は吹き飛んだ。彼は幸いにもというべきか、義手の右腕を損傷するだけで済んだが、一緒に作業をしていた阿輝アーフェイは、直接その爆発に巻き込まれた。阿輝は若く、軍属にとられなければ野球選手になりたいと言っていた。サウスポー。背番号は過去の名将に倣って「2」。砂煙がやむと、阿輝は血だらけで、左の肩から先がなくなっていた。嚴文はぼんやりと、彼が投げることのなくなった白球を思い描いていたが、痛い、痛い、と呻く阿輝に我に返った。嚴文は自分の軍服の上っ張りを脱ぎ、彼の傷口を押さえた。
「左腕を」阿輝が言った。「僕の左腕を、切り落としてください。あまりにも痛いので」
 腕はもう、と嚴文は言いかけ、口を閉じた。阿輝は叫び、暴れた。早く早く。嚴文は咄嗟に自分の右腕を動かした。だが、その義手も、肘より先がない。それでも、嚴文は阿輝の左腕をつかんだ、、、、。ああ、ああ、と、血で塞がれた瞼をゆるませ、阿輝の唇が歪む。嚴文は彼の左腕を、右の指先で、肩から滑らせる。阿輝の身体が震える。もっと、もっと。彼の二の腕はかたく締まっていて、豆の薄皮のようなその皮膚をつまみあげると、阿輝は小さく叫び声を上げた。涎が垂れている。首筋を垂れるその軌跡を、嚴文は別の指で拭ってやる。嚴文の右の人差し指は、やがて阿輝の手首にたどり着き、他の四本の指が、彼の指に絡もうとして動く。だが、なかなか阿輝の指には触れられない。逃げているのだ、と嚴文は気づき、ならばと自分も手を引っ込める。すると遅れて、阿輝の左腕がくらげのようにぬらぬらと嚴文を追いかける。しばらくふたりの腕の鬼ごっこが続く。けれど、阿輝の左手は嚴文へと追いつき、吸いつく。腕に、肩に、首に、顔に、阿輝の失われた左腕が確かに這いまわる。もっと、もっと。嚴文は叫ぶ。「僕の左腕を!」阿輝が言う。「早く早く!」
 嚴文は左手で短刀を取り出し、右手、、に持ち替えると、ためらいなく阿輝の左腕に降り下ろした。音はしない。血は既に吹きだし乾いている。しかし嚴文は確かな手ごたえをその身体に覚える。衝撃が刻まれる。阿輝は安心したように嚴文へと寄りかかる。その熱った彼の温度を、右腕の掌で測ろうとする。そして、嚴文は今しがた自分が切り落とした阿輝の左腕を、失われた自分の右手でつかんでいることを感じる。そのとき、爆弾がもうひとつ降ってくる。阿輝は嚴文を奥へと突き飛ばす。左と右の腕で。阿輝は消し飛ぶ。跡形もなく。彼の右腕も、彼の掴んでいた左腕も。
 嚴文はやがて兵役免除となり、故郷へ帰る。彼は祖母の家の畑仕事を手伝いながら暮らす。器用に鍬や鋤を操り、苗を植え、収穫する。やがて祖母が死に、独りきりになったころ、彼は義肢のメンテナンスのために、再び花東の療養所を訪れる。そこは古いままで、南側にある按摩の店も寄りかかるようにまだ存在している。朝早く、嚴文は店の扉をくぐる。
 按摩は嚴文を待っている。テーブルの上には、あの質問用紙と、それからドーナツがひとつ置いてある。コーヒーは湯気を立てている。
「ここが一番おいしい」
 按摩は嚴文が座るのを見届けると、ドーナツを手にとり、穴に指を入れる。人差し指の先で穴をかりかりと削り、まあるく沿わせたそこから、形のない欠片が落ちていく様子を嚴文は眺めている。按摩は指先を自らの口元に持ってくる。
「あなたの右腕の思い出は?」
 はらりとスカーフが落ち、その隙間にドーナツの穴は消えていく。しかし、消えた先にも何も見えない。按摩の服の下には何もない。何も見えない。触れて欲しい、と嚴文は思う。下半身が疼く。久しく忘れていた感情だった。感情? そう、それは感情だった。怒りとか悲しみとか、よろこびに似た。按摩の服が滑り落ちていく。衣擦れの音さえする。そして、嚴文の失われた右腕が、それを支えようと、上がる。